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2016年10月29日 (土)

「天孫降臨」のモデル 585

先週ご紹介した「舒明帝以降の帝関連人間模様」、
ご覧頂けました?
未だのお方は是非お目通しを。

ご覧頂けると一目瞭然。

何と、天智帝のお嬢さんの内4名も天武帝に嫁いでいる事実。
これには驚き。
天智帝が天武帝に何かしら弱みがあったのか?
天武帝が思いの外「心温かいイケメン」だったのか?

又、夭折した草壁皇子は叔母様(阿閇皇女)とご夫婦に。
しかし、草壁皇子の叔母様は僅か一歳年上の姉さん女房。
いたって世代的には特に問題はありません。
しかしながら、この二つのケースはタブーとされる「近親相姦」とは
ならないと云えども、血が濃過ぎる事実は否めません。

更に目を引くのは藤原鎌足(614~669)のお嬢さん達が
天武帝に2名嫁いでいます。
天智帝には0名で1名が息子(大友皇子)さんの奥様になっています。
天智帝と結託しクーデター(乙巳の変)を起こした鎌足は
次期帝候補の天武帝には2名輿入れさせ、
次の次の帝候補の大友皇子にお嬢さんを嫁がせる盤石な政策?

帝の順列は(一文字空間は世代別)
1 天智帝
2 天武帝
3  持統女帝
4    文武帝
5   元明女帝
6    元正女帝
7     聖武帝

持統女帝にとって文武帝お孫さん
元明女帝にとって聖武帝お孫さん

この人間関係・模様が「天降臨」のモデル。 続く。

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2016年10月22日 (土)

舒明帝以降の帝関連人間模様 584

舒明帝以降の帝に関連する人々が織りなす人間模様を整理・整頓
してみると

舒明帝(593~641)<纂輯御系図>
皇極女帝(594~661)
 天智帝(614~672)<纂輯御系図>
 間人皇女(?~665)
  天武帝(622~686)<纂輯御系図>

 天智帝
 (蘇我遠智娘)
  大田皇女(?~667)
  鸕野讃良皇女(645~697)
  建皇子(651~658)
 (蘇我姪娘)
  御名部皇女
  阿閇皇女(661~722)
 (蘇我常陸娘)<蘇我赤兄の娘>
  山辺皇女(?~668)
 (阿倍橘娘)(?~681)
  明日香皇女(?~700)
  新田部皇女(?~699)
 (道君伊羅都売)
  志貴(施基)皇子(?~716)
  (託基皇女)<天武帝の娘>
   春日王(?~745)
   湯原王
  (紀橡姫)
   難波女王(?~773)
   白壁王(=光仁帝)(709~781)
 (宅子娘)
  大友皇子(648~672)
  (十市皇女)<天武帝の娘>
   葛野王(669~705) ⇒淡海真人 ⇒淡海三船(722~785)
  (耳面刀自)<藤原鎌足の娘>
   壱志姫王
 (忍海造色夫古娘)
  川島皇子(657~691)
  (泊瀬部皇女)<天武帝の娘>
  大江皇女(?~699)
  泉皇女(?~734)
 (栗隈首黒媛娘)
  水主皇女(?~737)

 天武帝
 (鸕野讃良皇女=持統女帝)<天智帝の娘>
  草壁皇子(662~689)
  (阿閇皇女=元明女帝)<天智帝の娘>
   氷高皇女(=元正女帝 (680~748)
   軽皇子(=文武帝)(683~707)
      (藤原宮子)
        首王子(=聖武帝)(701~756)
   吉備内親王(?~729)
 (大田皇女)<天智帝の娘>
  大来皇女(661~702)
  大津皇子(663~686)
  (山辺皇女)<天智帝の娘>
   粟津王
 (新田部皇女)<天智帝の娘>
  舎人親王(676~735)
  (当麻山背)
   三原王(?~752)
   大炊王(=淳仁帝)(733~765)
 (大江皇女)<天智帝帝の娘>
  長皇子(?~715)
  弓削皇子(?~699)
 (氷上娘)(?~682)<藤原鎌足の娘>
  但馬皇女(?~708)
 (五百重娘)<藤原鎌足の娘>
  新田部親王(?~735)
 (大蕤娘)(?~724)<蘇我赤兄の娘>
  穂積皇子(?~715)
  (大伴坂上郎女)
   上道王(?~727)
   境部王
  紀皇女
  田形皇女(?~728)
 (額田王)
  十市皇女(?~678)
 (尼子娘)
  高市皇子(?~696)
  (御名部皇女)<天智帝の娘>
   長屋王(?~729)
   (吉備内親王)<草壁皇子の娘>
    膳夫王(?~729)
    桑田王(?~729)
    葛木王(?~729)
    鉤取王(?~729)
   (藤原長娥子)
    安宿王
    黄文王(?~757)
    山背王(?~763)
    教勝
   (智努女王)
    円方女王(?~774)
   (安倍大刀自)
    賀茂女王
 (◯媛娘)  ◯は木偏に穀
  忍壁皇子(?~705)
  磯城皇子
  泊瀬部皇女(?~741)
  託基皇女(?~751)

( )は奥様 一文字スペース一世代
*纂輯御系図・・・1877年11/20初版 横山由清・黒川真頼(元老院)編纂
纂輯御系図 上 (国立国会図書館デジタルコレクション)

取り急ぎ、ゆっくりご確認下さいませ。 続く。

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2016年10月15日 (土)

古事記編纂迄の30年間 583

天武帝が阿礼に「稽古照今」、誦習を命じ、
太安萬侶が古事記編纂した
この30年間の倭国、及び、日本のリーダーと文化は
*稽古照今・・・古(いにしえ)を稽(かんが)え今に照らす

682年 08/14 隼人の相撲を宮中にて観戦
683年 05/19 銅銭を用いる
684年 10/01 八色の姓を定める
684年 10/01 諸国大地震 土佐の田圃陥没で海に 伊豆海中に一島
685年 09/10 始めて神宝を伊勢神宮に奉る
685年 09/15 諸国の風俗・政治を巡察する
686年 09/09 天武帝崩御
686年 09/09 持統女帝践祚
687年 09/23 新羅の王子が来倭
690年 01/01 持統女帝即位
690年 04/14 服色八等を定める
690年 11/11 始めて元嘉暦と儀鳳暦を行う
691年 07/03 伊予国が白金を献じる
693年 01/02 農民の奴婢の服色を定める
693年 03/17 諸国に桑・梨・栗・蕪菁(かぶ)等を植えさせる
694年 12/30 大和の藤原宮に遷都
695年 05/21 隼人の相撲を宮中にて観戦
697年 08/01 文武帝即位
698年 03/05 因幡国が銅鐸を献じる
698年 11/05 伊勢国が白錫を献じる
699年 05/24 役小角(えんのおぬづ)を伊豆に流す
700年 03/15 律條を撰修する(翌年大宝律令として完成)
701年 03/21 対馬国が金を献じる 建元して大宝に
701年 08/08 明法博士を六道に遣わせて新令を講じる
702年 02/01 始めて新令を天下に頒つ
702年 03/21 始めて度量を天下に頒つ
702年 08/01 種子島の隼人叛く、この日之を討つ
702年 12/22 持統女帝崩御
704年 06/03 諸国の兵士に分番して武を習わせる
707年 06/15 文武帝崩御
707年 06/15 元明女帝践祚
707年 07/17 元明女帝即位
709年 03/05 陸奥・越後の蝦夷を征する
711年 06/14 諸国に錦綾の織法を教える 6月閏
711年 06/14 諸国に錦綾の織法を教える
711年 09/18 元明女帝が太安萬侶に古事記編纂依頼
712年 01/28 太安萬侶が元明女帝に古事記献上

この30年間(681年~711年)、
帝は天武帝持統女帝文武帝元明女帝
と継承されていました。  続く。

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2016年10月 8日 (土)

古事記編纂期間 128日 582

天武帝が
681年に「帝紀」及び「本辞」の修正を舎人の阿礼に命じてから
年月が流れてドンブラコ。

太安萬侶が元明女帝に古事記編纂依頼された日が
711年 和銅四年九月十八日

太安萬侶が元明女帝(661~721 在位707~715)に古事記謹上日が
712年 和銅五年正月廿八日

この間、僅か「128日」を以て
太安萬侶は古事記を書き上げたのでした。
「超高速!古事記編纂」ってな感じでは?

しかし、先週紹介しました「姓稗田名阿禮(礼)」にて
681年03/17に天武帝は
「帝紀及上古諸事」の編纂を親王等に命じていますので
おそらく、
この年、阿礼にも「日継及先代旧辞」の「誦習」を指示したのでは?
仮にこう仮定すると阿礼は654年にこの世に生を受けた事になります。
この推論からすると
711年09/18の時空では阿礼は御年58歳。
更に、天武帝に阿礼が誦習を命じられてから30年も経過しています。
又、天武帝は681年の翌年
682年 03/13新字四十四巻を造らしめ書物刊行を目指したのです。
しかしながら、阿礼の誦習を文字に置き換える方がいなかったのか?
天武帝は古事記を確認されず686年に崩御されています。 続く。

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2016年10月 1日 (土)

姓稗田名阿禮(礼) 581

天武帝が「帝紀」及び「本辞」の修正を舎人、
「姓稗田名阿禮(礼)」に命じた時点での阿礼の歳は「廿八(28)」。
歳は旧暦ですので数え年。
681年03/17に天武帝は
「帝紀及上古諸事」の編纂を親王等に命じていますので
おそらく、
この年、阿礼にも「「日継及先代旧辞」の「誦習」を指示したのでは?
仮にこう仮定すると阿礼は654年にこの世に生を受けた事になります。
又、阿礼は女性だったとの説もあり
代名詞「彼・彼女」で表現できません。
然るに、ここでは諄いですが「阿礼」で通します。
阿礼は
超抜群の表現・暗記・歌唱力があり
とても「聰(聡)明」だったとの事です。
とは云うものの、
阿礼は「どちら様」かに昔の出来事(古事<ふること>)を
お聞きにならなければどんなに聡明でも「誦習」は不可能。
天武帝も「どちら様」かに「帝紀」及び「本辞」に誤りがあることを
お聞きなって阿礼に正すよう命じ促したのです。

朕(天武帝)聞諸家之所賷
 帝紀及本辞
 既違正実
 多加虚偽
 当今之時
 不改其失
 未経幾年
 其旨欲滅
 斯乃邦家之経緯
 王化之鴻基焉
 故惟撰録帝紀
 討覈旧辞削偽定実
 欲流後葉」

天武帝に提言、阿礼に伝え聞かせたこの「どちら様(複数?)」は
一体、「どちら様」なのでしょう?
おそらく、天武帝にシンパシー(sympathy)をお持ちの方で歴史・文学に
大変通じたお方であったと思われます。
このお方、
オッカム的には阿礼さんの親御さんかお身内であったのでは?
又、「姓稗田名阿礼」は芸名・偽名・愛称やも知れません。
何せ、
超一流の歴史・文学者が全く他の文献等で登場しないのですから。

余談ですが、否、本談ですが、この年
681年04/03に天武帝は「禁式九十二条を作製」、服色を定めています。
又、翌年
682年04/23 にヘアースタイルの変更も。
   角髪(みずら) ⇒ 男性・女性ともに結髪 へ。  続く。

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