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2016年9月24日 (土)

古事記編纂迄の歴史的出来事 580

古事記は712年元明女帝の命により作成・献上されましたが、
本を正せば、古事記編纂は天武帝(?~686 在位673~686)の命。
天武帝は672年に天智帝(626~671 在位668~671)の息子、
大友皇子(648~672)との権力(帝位継承)闘争に勝利したお方。
この「壬申(672年)の乱」は皆さんご存じの通り。
天智帝と天武帝はご兄弟。
彼らの父は舒明帝(?~641 在位629~641)、
母は皇極・斉明女帝(594~661 在位642~645 655~661)。
皇極・斉明女帝は舒明帝の正奥様(皇后)。
彼女は敏達帝(538?~585? 在位572?~585?)のひ孫さん。
舒明帝の母違いの弟、智奴(茅渟)王が父。
舒明帝は敏達帝のお孫さん。
この敏達帝が古事記下巻最終に登場されたお方。
「敏達帝~推古帝 古事記原文」にてご確認下さい。
尚、諄くなりますが敏達帝は
欽明帝(509?~571? 在位539?~571?)のお子さんで
継体帝(450?~531? 在位507?~531?)のお孫さんです。

天武帝即位から時間を逆下ると
673年 02/27天武帝即位
672年 07/23大海人は践祚
672年 07/23大海人軍 近江勢田にて大友皇子軍殲滅 皇子は自害
672年 06/22大海人ら吉野で挙兵(壬申の乱)
671年 12/03天智帝崩御
671年 10/19天智帝の息子、大友皇子(648~672)を皇太子に
   天武帝は鸕野讃良皇女(645~703)(後の持統帝)らと吉野へ
671年 04/25「漏刻」を設置、時を計る
670年 04/30法隆寺焼失
669年 10/16 藤原鎌足病死
669年 10/15 中大兄 内臣の中臣鎌足に姓を藤原と与え内大臣に抜擢
668年 唐の攻撃を受け高句麗滅亡
668年 01/03天智帝(中大兄皇子)即位
667年 03/19中大兄皇子 近江の大津に遷都
665年 09/23唐使来朝
664年 05/17唐使来朝
664年 02/09冠位十二階を定める
663年 08/28白村江(唐軍 v.s. 倭軍)の戦いで大敗
661年 07/24斉明女帝筑紫にて崩御
661年 01/06斉明女帝ら西を目指し難波出航、筑紫の朝倉宮へ赴く
660年 12/24百済から救援要請を受け
   百済救援の為斉明女帝・中大兄(天智)・大海人(天武)らは
   難波へ    
660年 唐軍百済を攻撃、百済滅亡
658年 11/11孝徳帝の息子、有馬皇子(640~658)
   謀反のかどで中大兄皇子に抹殺される
655年 01/03元皇極女帝が重祚し斉明女帝に
654年 10/10孝徳帝悲痛により?崩御
653年 孝徳帝の難波宮から中大兄らが離脱し大和へ
650年 02/15白雉と改元
649年 03/25蘇我倉山田石川麻呂謀反のかどで殺害される
645年 09/12中大兄(天智)の異母兄、
   古人大兄皇子(?~645)謀反のかどで殺害される
645年 07/02間人皇女(?~665)(中大兄<天智帝>の妹)孝徳帝皇后
645年 06/19皇極4年を改め大化元年とする
645年 06/14皇極女帝の弟、軽皇子(孝徳帝)に譲位
   孝徳帝(596~654 在位645~654)
645年 06/13蘇我蝦夷(586?~645)殺害され、天皇紀・国紀焼失?
645年 06/12乙巳の変(通称、大化の改新)
   中大兄、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂ら蘇我入鹿を殺害
643年 11/16蘇我入鹿(610?~645)が山背大兄王を攻撃、
   山背大兄王(?~643)は自害
   山背大兄王は「厩戸豊聡耳命(聖徳太子)(574~622)の息子
642年 02/22皇極女帝即位の件、高麗・百済・新羅・任那に使いを遣わす
642年 01/15宝皇子(皇極女帝)即位
641年 10/09舒明帝崩御
631年 09/19舒明帝 有馬温泉へ
631年 03/01百済王の子息を人質に
630年 01/12宝皇子(後の皇極女帝)が舒明帝の皇后に
629年 01/04舒明帝践祚
628年 03/07推古女帝崩御(554~628 在位593~628)
620年 「天皇紀及び国紀、公民等の本紀を録す(日本書紀)」
618年 随が滅び唐が成立

歴史の一こまは立場違いで一概に上記のように語れないのですが、
一応、ZIPANGUなりに選録してみました。 続く。

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2016年9月17日 (土)

太朝臣安萬侶 癸亥年七月六日卒 579

先週紹介した「太安万侶墓誌」。
刻印されていた文字は

「左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之
 養老七年十二月十五日乙巳」

太安万侶は
左亰四條四坊にお住まいあり、
従四位下勲五等が亡くなる前の職階で、
癸亥年七月六日にあの世に旅立たれ、
養老七年十二月十五日乙巳に埋葬した。

と云う事実が奈良市で茶畑を営むお爺さんのお陰で判明したのです。

癸亥年七月六日卒の「癸亥年」は干支紀年法から723年に。
723年と規定できるのは
604年より日本に於いて「暦」がスタート(政事要略)、
604/1/1=甲子年 丙寅月 癸卯日=推古十二年 正月 朔日、
604年が「甲子(コウシ=きのえね)年」で
「癸亥(キガイ=みずのとい)年」は丁度60番目、
604+59=663年 604+119=723年 604+179=783年、
埋葬日が養老七年十二月十五日乙巳、
元号の養老は元正帝の御代で(717~724年)からです。
尚、干支紀年法、及び、暦につきましては
「旧暦・十干十二支・陰陽五行説」
「旧暦 太陽太陰暦の仕組み」でご確認下さい。

癸亥年七月六日
癸亥年庚申月戊辰日
養老七年七月六日
723年7月6日
723/7/6

上記、全て同じ表現になるのです。
平成世代は当然、一番下の「723/7/6」ですよね?
又、余計なお世話ですが、
「養老七年十二月十五日乙巳」の乙巳は十五日で15日15日と
念を押したような表現に。
決して埋葬日もお忘れ無くって感じ? 続く。

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2016年9月10日 (土)

古事記偽書説 太安万侶墓で没 578

「草木国土悉皆成仏」を唱える「梅原猛」さんの
古事記の文学性を味わう為「原文の古事記に当たって読んでほしい」
との、お薦めから「古事記読み」にファンである故に挑戦。
服・服飾・色、及び、女性に関する事象が
どの程度記述されているかの興味と
たかが「日本書紀」の十分の一の3巻しかないと読み始めたものの、
どっこい、思わず7年もの歳月を要す羽目になってしまったのです。
はじめは2009/05/04「神話、古事記を紐解くと」
おわりは2016/07/30「敏達帝~推古帝 古事記原文」に。
服・服飾・色、に関する事象は僅かながら登場。
女性の関しては数多。
この動機なくして最後まで読破はできなかったと思われます。
この間、世はパソコン⇒ブログからスマホ⇒SNSに変貌。
ブログはファッション(流行)上、既に「時代遅れ」の超コンサバティブ
情況に陥っている昨今。
ブログで情報発信し続けるのは「ガラパゴスシンドローム(症候群)」。
誰も欲しない「ブログ情報」発信は全く、爺婆の世迷い言世界へ。

今や、一体、「どうしたもんじゃろのー」と思いを馳せる
わたくしども ZIPANGU スタッフ一同なのです。

味わい無き、簡潔・機械的表現のSNSではわたくしどもの「思い」を
決して、口惜しいのですがお伝えでき得ません。
しかしながら、
暫し、この葛藤を続けながら行きがかり上
「古事記の味わい」を展開したいと考えています。

イントロはこれ位にして、本論へ参ります。
そもそも、「古事記」は、とある時節まで「偽書」とされていました。
更に「太安万侶」自身の存在も懐疑の目で見られていたのです。
それを完全否定したのは「太安万侶墓」の出現です。
お日柄は1979年1月、奈良市で茶畑を営むお爺さんが
偶然見つけちゃったんです。
その墓誌には下記のごとき記されていたのです。

「左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之
 養老七年十二月十五日乙巳」

 続く。

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2016年9月 3日 (土)

古事記原文 安萬侶の序 577

安萬侶が古事記謹上の際に於ける、「安萬侶の序」古事記原文です。

臣安萬侶言
夫混元既凝
氣象未效
無名無爲
誰知其形
然乾坤初分
參神作造化之首
陰陽斯開
二靈爲群品之祖
所以出入幽顯
日月彰於洗目
浮沈海水
神袛呈於滌身
故太素杳冥
因本教而識孕土産嶋之時元始綿邈
頼先聖而察生神立人之世
寔知懸鏡吐珠
而百王相續
喫劒切蛇
以萬神蕃息歟
議安河而平天下
論小濱而淸國土是以番仁岐命
初降于高千嶺
神倭天皇
經歷于秋津嶋
化熊出爪
天劒獲於高倉
生尾遮徑
大烏導於吉野
列儛攘賊
聞歌伏仇
即覺夢而敬神袛
所以稱賢后
望烟而撫黎元
於今傳聖帝
定境開邦
制于近淡海
正姓撰氏
勒于遠飛鳥
雖步驟各異
文質不同
莫不稽古以繩風猷於既頽
照今以補典教於欲絶
曁飛鳥淸原大宮
御大八洲天皇御世
濳龍體元
洊雷應期
開夢歌而相纂業
投夜水而知承基
然天時未臻
蝉蛻於南山
人事共洽
虎步於東國
皇輿忽駕
淩渡山川
六師雷震
三軍電逝
杖矛擧威
猛士烟起
絳旗耀兵
凶徒瓦解
未移浹辰
氣沴自清
乃放牛息馬
愷悌歸於華夏
卷旌戢戈
儛詠停於都邑
歲次大梁
月踵夾鍾
清原大宮
昇即天位
道軼軒后
德跨周王
握乾符而摠六合
得天統而包八荒
乘二氣之正
齊五行之序
設神理以奬俗
敷英風以弘國
重加智海浩瀚
潭探上古
心鏡煒煌
明覩先代
於是天皇詔之
朕聞諸家之所賷
帝紀及本辭
既違正實
多加虛僞
當今之時
不改其失
未經幾年
其旨欲滅                  
斯乃邦家之經緯
王化之鴻基焉
故惟撰録帝紀
討覈舊辭削僞定實
欲流後葉
時有舍人
姓稗田名阿禮
年是廿八
爲人聰明
度目誦口
拂耳勒心
即勅語阿禮
令誦習帝皇日繼及先代舊辭
然運移世異
未行其事矣
伏惟皇帝陛下
得一光宅
通三亭育
御紫宸而德被馬蹄之所極
坐玄扈而化照船頭之所逮
日浮重暉             
雲散非烟
連柯幷穗之瑞
史不絶書
列烽重譯之貢
府無空月
可謂名高文命 
德冠天乙矣
於焉惜舊辭之誤忤
正先紀之謬錯
以和銅四年九月十八日
詔臣安萬侶
撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者
謹隨詔旨
子細採摭
然上古之時
言意並朴
敷文構句
於字即難
已因訓述者
詞不逮心
全以音連者
事趣更長
是以今或一句之中
交用音訓
或一事之內
全以訓録
即辭理叵見
以注明意
況易解更非注
亦於姓日下謂玖沙訶
於名帶字謂多羅斯
如此之類
隨本不改
大抵所記者
自天地開闢始
以訖于小治田御世
故天御中主神以下
日子波限建鵜草葺不合尊以前
爲上卷
神倭伊波禮毘古天皇以下
品陀御世以前
爲中卷
大雀皇帝以下
小治田大宮以前
爲下卷
幷録三卷謹以獻上
臣安萬侶
誠惶誠恐頓首頓首
和銅五年正月廿八日
正五位上勳五等太朝臣安萬侶(謹上)

読み解きは来週に。  続く。

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記上巻
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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