古事記編纂迄の歴史的出来事 580
古事記は712年元明女帝の命により作成・献上されましたが、
本を正せば、古事記編纂は天武帝(?~686 在位673~686)の命。
天武帝は672年に天智帝(626~671 在位668~671)の息子、
大友皇子(648~672)との権力(帝位継承)闘争に勝利したお方。
この「壬申(672年)の乱」は皆さんご存じの通り。
天智帝と天武帝はご兄弟。
彼らの父は舒明帝(?~641 在位629~641)、
母は皇極・斉明女帝(594~661 在位642~645 655~661)。
皇極・斉明女帝は舒明帝の正奥様(皇后)。
彼女は敏達帝(538?~585? 在位572?~585?)のひ孫さん。
舒明帝の母違いの弟、智奴(茅渟)王が父。
舒明帝は敏達帝のお孫さん。
この敏達帝が古事記下巻最終に登場されたお方。
「敏達帝~推古帝 古事記原文」にてご確認下さい。
尚、諄くなりますが敏達帝は
欽明帝(509?~571? 在位539?~571?)のお子さんで
継体帝(450?~531? 在位507?~531?)のお孫さんです。
天武帝即位から時間を逆下ると
673年 02/27天武帝即位
672年 07/23大海人は践祚
672年 07/23大海人軍 近江勢田にて大友皇子軍殲滅 皇子は自害
672年 06/22大海人ら吉野で挙兵(壬申の乱)
671年 12/03天智帝崩御
671年 10/19天智帝の息子、大友皇子(648~672)を皇太子に
天武帝は鸕野讃良皇女(645~703)(後の持統帝)らと吉野へ
671年 04/25「漏刻」を設置、時を計る
670年 04/30法隆寺焼失
669年 10/16 藤原鎌足病死
669年 10/15 中大兄 内臣の中臣鎌足に姓を藤原と与え内大臣に抜擢
668年 唐の攻撃を受け高句麗滅亡
668年 01/03天智帝(中大兄皇子)即位
667年 03/19中大兄皇子 近江の大津に遷都
665年 09/23唐使来朝
664年 05/17唐使来朝
664年 02/09冠位十二階を定める
663年 08/28白村江(唐軍 v.s. 倭軍)の戦いで大敗
661年 07/24斉明女帝筑紫にて崩御
661年 01/06斉明女帝ら西を目指し難波出航、筑紫の朝倉宮へ赴く
660年 12/24百済から救援要請を受け
百済救援の為斉明女帝・中大兄(天智)・大海人(天武)らは
難波へ
660年 唐軍百済を攻撃、百済滅亡
658年 11/11孝徳帝の息子、有馬皇子(640~658)
謀反のかどで中大兄皇子に抹殺される
655年 01/03元皇極女帝が重祚し斉明女帝に
654年 10/10孝徳帝悲痛により?崩御
653年 孝徳帝の難波宮から中大兄らが離脱し大和へ
650年 02/15白雉と改元
649年 03/25蘇我倉山田石川麻呂謀反のかどで殺害される
645年 09/12中大兄(天智)の異母兄、
古人大兄皇子(?~645)謀反のかどで殺害される
645年 07/02間人皇女(?~665)(中大兄<天智帝>の妹)孝徳帝皇后
645年 06/19皇極4年を改め大化元年とする
645年 06/14皇極女帝の弟、軽皇子(孝徳帝)に譲位
孝徳帝(596~654 在位645~654)
645年 06/13蘇我蝦夷(586?~645)殺害され、天皇紀・国紀焼失?
645年 06/12乙巳の変(通称、大化の改新)
中大兄、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂ら蘇我入鹿を殺害
643年 11/16蘇我入鹿(610?~645)が山背大兄王を攻撃、
山背大兄王(?~643)は自害
山背大兄王は「厩戸豊聡耳命(聖徳太子)(574~622)の息子
642年 02/22皇極女帝即位の件、高麗・百済・新羅・任那に使いを遣わす
642年 01/15宝皇子(皇極女帝)即位
641年 10/09舒明帝崩御
631年 09/19舒明帝 有馬温泉へ
631年 03/01百済王の子息を人質に
630年 01/12宝皇子(後の皇極女帝)が舒明帝の皇后に
629年 01/04舒明帝践祚
628年 03/07推古女帝崩御(554~628 在位593~628)
620年 「天皇紀及び国紀、公民等の本紀を録す(日本書紀)」
618年 随が滅び唐が成立
歴史の一こまは立場違いで一概に上記のように語れないのですが、
一応、ZIPANGUなりに選録してみました。 続く。