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2016年7月30日 (土)

敏達帝~推古帝 古事記原文 575

敏達帝~推古帝の古事記原文です。

沼名倉太玉敷命 <敏達帝>
坐他田宮治天下壹拾肆歲也
此天皇
庶妹豐御食炊屋比賣命
生御子
静貝王
亦名貝鮹王
次竹田王
亦名小貝王
次小治田王
次葛城王
次宇毛理王
次小張王
次多米王
次櫻井玄王(八柱)
又娶伊勢大鹿首之女小熊子郎女
生御子
布斗比賣命
次寶王
亦名糠代比賣王(二柱)
又娶息長眞手王之女比呂比賣命
生御子
忍坂日子人太子
亦名麻呂古王
次坂騰王
次宇遲王(三柱)
又娶春日中若子之女老女子郎女
生御子
難波王
次桑田王
次春日王
次大股王(四柱)
此天皇之御子等
并十七王之中
 日子人太子
 娶庶妹田村王
 亦名糠代比賣命
 生御子
 坐岡本宮治天下之天皇 <舒明帝>
 次中津王
 次多良王(三柱)
 又娶漢王之妹大俣王
 生御子
 智奴王
 次妹桑田王(二柱)
 又娶庶妹玄王
 生御子
 山代王
 次笠縫王(二柱)
 并七王
御陵在川内科長也
橘豐日命 <用明帝>
坐池邊宮
治天下參歲
此天皇
稻目宿禰大臣之女
意富藝多志比賣
生御子
多米王(一柱)
又娶庶妹間人穴太部王
生御子
上宮之厩戸豐聰耳命 <後の聖徳太子>
次久米王
次植栗王
次茨田王(四柱)
又娶當麻之倉首比呂之女
飯女之子
生御子
當麻王
妹須加志呂古郎女
此天皇
御陵在石寸掖上
後遷科長中陵也
長谷部若雀天皇 <崇峻帝>
坐倉椅柴垣宮
治天下肆歲
御陵
在倉椅岡上也
豐御食炊屋比賣命 <推古帝>
坐小治田宮
治天下參拾漆歲
御陵在大野岡上
後遷科長大陵也

読み解きは来週に。  続く。

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P122の9行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2016年7月23日 (土)

歴史教科書登場で親近感湧く帝達 574

安閑帝~欽明帝の記述ですが皆さんの係累のみです。
安閑帝は奥様もお子さんが存在してませんが
宣化帝は5名のお子さん、又、 欽明帝は子沢山で何と25名も。
欽明帝のお子さんから後に4名の方々が帝位にお就きです。

継体帝 ⇒ 安閑帝
           ⇒ 宣化帝
           ⇒ 欽明帝 ⇒ 敏達帝
                          ⇒ 用明帝
                          ⇒ 崇峻帝
                          ⇒ 推古帝

上記のようになっています。
又、上から順番に帝位に就任されています。
ここ時代まで来ると、日本史の教科書に出現してますので
どことなく「親近感」が湧いてきませんか?
そして、いよいよ来週は古事記下巻のエンディングです。 
乞うご期待  続く。

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2016年7月16日 (土)

安閑帝~欽明帝 古事記原文 573

安閑帝~欽明帝の古事記原文です。

廣國押建金日命 <安閑帝>
坐勾之金箸宮
治天下也
此天皇無御子也
御陵在河内之古市高屋村也
建小廣國押楯命 <宣化帝>
坐檜坰之廬入野宮治天下也
天皇
意祁天皇之御子橘之中比賣命
生御子
石比賣命(訓石如石下效此)
小石比賣命
次倉之若江王
又娶川內之若子比賣
生御子
火穗王
次惠波王
此天皇之御子等幷五王(男三女二)
故火穗王者(志比陀君之祖)
惠波王者(韋那君多治比君之祖也)
天國押波流岐廣庭天皇 <欽明帝>
坐師木嶋大宮治天下也
天皇
檜坰天皇之御子石比賣命
生御子
八田王
次沼名倉太玉敷命 <後の敏達帝>
笠縫王(三柱)
又娶其弟小石比賣命
生御子
上王(一柱)
又娶春日之日爪臣之女糠子郎女
生御子
春日山田郎女
次麻呂古王
次宗賀之倉王(三柱)
又娶宗賀之稲目宿禰大臣之女岐多斯比賣
生御子
橘之豐日命 <後の用明帝>
次妹石坰王
次足取王
豐御氣炊屋比賣命 <後の推古帝>
次亦麻呂古王
次大宅王
次伊美賀古王
次山代王
次妹大伴王
次櫻井之玄王
次麻奴王
次橘本之若子王
次泥杼王(十三柱)
又娶岐多志比賣命之姨小兄比賣
生御子
馬木王
次葛城王
次間人穴太部王
次三枝部穴太部王
亦名須賣伊呂杼
長谷部若雀命(五柱) <後の崇峻帝>
凡此天皇之御子等
并廿五王
此之中沼名倉太玉敷命者治天下
次橘之豐日命治天下
次豐御氣炊屋比賣命治天下
次長谷部之若雀命治天下也
并四王治天下也

読み解きは来週に。  続く。

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P120の9行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2016年7月 9日 (土)

筑紫の磐井 継体帝に服す 572

先週の「磐井の乱」で「古事記」と「日本書紀」との描写から
竺紫(筑紫)の石井(磐井)を殺害したのは
物部荒甲(麁鹿火)軍と云う事になります。
「日本書紀」に依ると、戦場は「御井郡(みいぐん)」とされています。
御井郡と云う地名は現在の福岡県三井郡(御井郡+御原郡+山本郡)
として存在しています。
又、この近くには岩戸山前方後円墳が有ります。
この古墳は福岡県八女市に有り、
石井(磐井)のお墓とも云われています。
石井(磐井)は間違いなく畿内豪族集団に対置した
北九州の雄だったのでしょう。
この戦いは畿内軍団がわざわざ遠い北九州へ遠征していますので
石井(磐井)が仕掛けた戦(いくさ)でなかったと思われます。
先制攻撃までした潰したい存在だった石井(磐井)は
畿内豪族集団に敵対できる北九州地区のリーダーだったのでしょう。
石井(磐井)殺害後、
果たして「疆場(境界)」を定めるとされていますので
有る程度、石井(磐井)の治めたエリアを残したのでしょう?
「日本書紀」はこの次に

十二月筑紫君葛子
恐坐父誅
獻糟屋屯倉
求贖死罪

こちらは国立国会図書館 電子図書館蔵書巻17
確認可能ですので是非ご覧下さい。

と記述しています。
石井(磐井)の息子、「葛子」は抹殺を免れる為、
「糟屋(かすや)屯倉(=郡?)」を献上しています。
糟屋郡は現在も地名として残っています。(福岡県糟屋郡)
糟屋郡は玄界灘に面する
竺紫(筑紫)の石井(磐井)集団にとり、要衝地区だった筈。
彼の地を手放した事は
畿内豪族集団、継体帝に服したってことでしょう。  続く。

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2016年7月 2日 (土)

継体帝 唯一記載の竺紫君石井事件 571

古事記「竺紫君石井(つくしのきみいはゐ)事件」の記述は下記に。

「竺紫君
 不従天皇之命而
 多无礼
 故遣物部荒甲之大連
 大伴之金村連二人而
 殺石井」

日本書紀の表記では「竺紫」⇒「筑紫」、「石井」⇒「磐井」に。
「筑紫君は継体帝に命に従わず、
 礼「无=無」きことがはなはだ多かった。
 従って、
 物部荒甲之大連(もののべのあらかひのおおむらじ)
 大伴之金村連(おほとものかなむらのむらじ)
 の二名の軍団を遣わし、磐井を殺害した。」 と、
いともシンプルな記載のみ。
只、仁賢帝~武烈帝までは何も事件・事象が描かれていないので
この事件だけはこの間、画期的な事だったに違いありません。
日本史で 528年「磐井の乱」とされている事件です。
この出典は「日本書紀」に依っています。
日本書紀に於いて、
この事件は継体22年(西暦換算528年)の出来事に。
これを事実とすると継体帝は507年に即位したことに。
「日本書紀」の「磐井の乱」の記述は

廿二年冬十一月甲寅朔甲子
大將軍物部大連麁鹿火
親與賊師磐井交戰於筑紫御井郡
旗鼓相望
埃塵相接
決機兩陣之間
不避万死之地
遂斬磐井
果定疆場

となっています。
こちらは国立国会図書館 電子図書館蔵書巻17
確認可能ですので是非ご覧下さい。 続く。

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