筑紫の磐井 継体帝に服す 572
先週の「磐井の乱」で「古事記」と「日本書紀」との描写から
竺紫(筑紫)の石井(磐井)を殺害したのは
物部荒甲(麁鹿火)軍と云う事になります。
「日本書紀」に依ると、戦場は「御井郡(みいぐん)」とされています。
御井郡と云う地名は現在の福岡県三井郡(御井郡+御原郡+山本郡)
として存在しています。
又、この近くには岩戸山前方後円墳が有ります。
この古墳は福岡県八女市に有り、
石井(磐井)のお墓とも云われています。
石井(磐井)は間違いなく畿内豪族集団に対置した
北九州の雄だったのでしょう。
この戦いは畿内軍団がわざわざ遠い北九州へ遠征していますので
石井(磐井)が仕掛けた戦(いくさ)でなかったと思われます。
先制攻撃までした潰したい存在だった石井(磐井)は
畿内豪族集団に敵対できる北九州地区のリーダーだったのでしょう。
石井(磐井)殺害後、
果たして「疆場(境界)」を定めるとされていますので
有る程度、石井(磐井)の治めたエリアを残したのでしょう?
「日本書紀」はこの次に
十二月筑紫君葛子
恐坐父誅
獻糟屋屯倉
求贖死罪
こちらは国立国会図書館 電子図書館蔵書巻17で
確認可能ですので是非ご覧下さい。
と記述しています。
石井(磐井)の息子、「葛子」は抹殺を免れる為、
「糟屋(かすや)屯倉(=郡?)」を献上しています。
糟屋郡は現在も地名として残っています。(福岡県糟屋郡)
糟屋郡は玄界灘に面する
竺紫(筑紫)の石井(磐井)集団にとり、要衝地区だった筈。
彼の地を手放した事は
畿内豪族集団、継体帝に服したってことでしょう。 続く。
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