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2016年6月25日 (土)

仁賢帝~武烈帝は係累のみ継体帝も少々 570

仁賢帝~武烈帝は係累記述のみ。
意冨祁命(仁賢帝)のお子さん、小長谷若雀命(武烈帝)に男子が
できず、帝位は「品太天皇(応神帝)五世之孫袁本杼命(継体帝)」が
お継ぎになったとか。
品太(ほむた)天皇(応神帝)の五世の孫、
袁本杼(をほど)命=継体帝と記載されていますが
「応神帝は10名の奥様を」のどの系列のお方が全く触れていません。
触れられないのか、内緒なのか、秘密なのかさっぱり・・・・・。
この問題は後に考察したいと考えます。
継体帝は8名の女性と娶り、お子さんは19名(男7 女12)も。
中々、久方ぶりのお元気なお方では。
更に、お子さんの内3名が後に帝位にお就きになっています。
尾張連等の祖凡連の妹、目子郎女さんがもうけた
広国押建金日命(後の安閑帝)
建小広国押楯命(後の宣化帝)
仁賢帝のお嬢さん、手白髪命との愛の結晶
天国押波流岐広庭命(後の欽明帝)     のお三方です。
手白髪命さんは「大后」と記されています。
彼女は帝のお嬢さんだから当然なのかしら
又、息長真手王の女、麻組郎女さんとのお嬢さん
佐佐宜郎女(ささげのいらつめ)さんは伊勢神宮の巫女に。
ここでお断りしなくてはいけないことがあります。
前週の古事記原文の中で「赤文字太ゴシック 」部分は
日本書紀より補ったものです。
又、「青文字太ゴシック 」部分、文字が四角囲いになっています。
こちらも写本をする際補足したものと思われます。  続く。

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2016年6月18日 (土)

仁賢帝~武烈帝~継体帝へ 569

仁賢帝~武烈帝~継体帝へ連なる古事記原文です。

意冨祁命 <仁賢帝>
坐石上廣高宮
治天下也
天皇
娶大長谷若建天皇<雄略帝>之御子春日大郎女
生御子
高木郎女
財郎女
久須毘郎女
手白髪郎女
次小長谷若雀命 <後の武烈帝>
次眞若王
又娶丸邇日爪臣之女糠若子郎女
生御子
春日山田郎女
此天皇之御子
并七柱
此之中小長谷若雀命者治天下也

小長谷若雀命 <武烈帝>
坐長谷之列木宮
治天下捌歳也
此天皇
旡太子
故爲御子代
定小長谷部也
御陵在片岡之石坏岡也
天皇既崩
無可知日續之王
故品太天皇<応神帝>五世之孫
袁本杼命<後の継体帝>
自近淡海國令上坐而
於手白髪命<仁賢帝のお嬢さん>
授奉天下也

袁本杼命 <継体帝>
坐伊波禮之玉穗宮治天下也
天皇
娶三尾君等祖名若比賣
生御子
大郎子
出雲郎女(二柱)
又娶尾張連等之祖凡連之妹目子郎女
生御子
廣國押建金日命<後の安閑帝>
次建小廣國押楯命(二柱)<後の宣化帝>
又娶意冨祁天皇之御子手白髪命(是大后也)
生御子
天國押波流岐廣庭命(波流岐三字以音 一柱)<後の欽明帝>
又娶息長眞手王之女麻組郎女
生御子
佐佐宜郎女(一柱)
又娶坂田大股王之女黒比賣
生御子
神前郎女
茨田郎女
馬来多郎女(三柱)        太赤字は丸囲い
又娶茨田連小望之女關比賣      
生御子
茨田大郎女

白坂活日郎女    太青字は四角囲い
小野郎女
亦名長目比賣(三柱)
又娶三尾君加多夫之妹倭比賣
生御子
大郎女
次丸高王
次耳{上}王       {上}小さく表示
赤比賣郎女(四柱)
又娶阿倍之波延比賣
生御子
若屋郎女
都夫良郎女
次阿豆王(三柱)
此天皇之御子等
并十九王(男七 女十二)
此之中天國押波流岐廣庭命者
治天下
次廣國押建金日命
治天下
次建小廣國押楯命
治天下
次佐佐宜命者
拜伊勢神宮也
此御世
竺紫君石井
不從天皇之命而
多无禮
故遣物部荒甲之大連
大伴之金村連二人而
殺石井
天皇
御年肆拾參歳
御陵者三嶋之藍御陵也      太青字は四角囲い

読み解きは来週に。  続く。

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P118の1行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2016年6月11日 (土)

雄略帝の御陵破壊へ配慮 568

次なる展開は「大長谷天皇(雄略帝)」の「御陵」「破壊」事件。
顕宗帝は父親(市辺之押歯王)を殺害した雄略帝への報復として
雄略帝の「御陵破壊」を企図します。
顕宗帝が人を遣わそうとした際、
彼の兄、意冨祁命(後の仁賢帝)はそれを押し止め自ら赴くと進言。
顕宗帝は兄に「御陵破壊」を委ねます。
意冨祁命は雄略帝の御陵へ行き、
御陵の傍らの土を少しばかり持ち帰ります。
帰還した意冨祁命は顕宗帝に早速、「御陵破壊」をご報告。
顕宗帝はあまりにも早い意冨祁命の帰還に
「『如何(どのように)お墓を破壊されました?』とお尋ね。
そこで意冨祁命は
「御陵の傍らの土を少しばかり掘り起こしました」とお答えに。
訝る顕宗帝は
「なぜ、憎き雄略帝の御陵を悉く破壊しなかったのですか?」と。
すると意冨祁命はおもむろに
「顕宗帝の父を思うお気持ちはよく理解できます。
 但し、雄略帝は父の『従父(いとこ)』で天皇をされたお方。
 父の『仇』のみで御陵破壊は皆様の誹りを招きます。
 然るに、父の仇を取るのは当然ですので少しばかり雄略帝の御陵
 を掘りました。これで十分雄略帝を辱めたことになります。
 又、後の世にもこの事実が語られるでしょう。」とお答え。
顕宗帝は意冨祁命の配慮に感服、その通りにされたとの事。
顕宗帝が崩御されると意冨祁命(=仁賢帝)が即位された。
顕宗帝は「參拾捌歳(38歳)」でお亡くなりになり、
天皇位を「八歳(8年)」お勤めになられた。 続く。

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2016年6月 4日 (土)

大事にされた置目老媼 斬首された猪甘老人 567

顕宗帝は置目老媼に思いをはせ、歌を作ります。

阿佐遲波良(あさぢはら〈浅茅原〉)
袁陀爾袁須疑弖(をだに〈小谷〉をす〈過〉ぎて)
毛毛豆多布(ももづたふ)
奴弖由良久母(ぬて〈鐸〉ゆ〈揺〉らくも)
淤岐米久良斯母(おきめ〈置目〉く〈来〉らしも)

「多くの野原・小谷を越えて鐸の音が
 まさに置目老媼が来るようだ」

暫くすると置目老媼は老齢故、都暮らしに疲れ
生まれ育った田舎の淡海(近江)国へ帰りたい気持ちを顕宗帝に告白。
顕宗帝は置目老媼を慮り、彼女を帰郷させます。
その際、彼女を見送る顕宗帝は一歌。

意岐米母夜(おきめ〈置目〉もや)
阿布美能淤岐米(あふみ〈淡海〉の置目)
阿須用理波(あす〈明日〉よりは)
美夜麻賀久理弖(みやま〈御山〉がく〈隠〉りて)
美延受加母阿良牟(み〈見〉えずかもあらむ)

「置目よ淡海の置目、明日より山の向こうに行ってしまうから
 もう逢えなくなってしまうよな」
何か、若くて愛しい彼女とのお別れ見たいな感じでは?
ここで、置目老媼のお話から一転、
「山代(=山城国)之猪甘」の「粮(=乾飯)」強奪事件へ。
お二人(袁祁命・意冨祁命)が播磨国への逃避行の際、
山城国で顔に刺青を施した「猪甘老人」に乾飯を奪われました。
その時の子細は記述されていませんでした。
しかし、袁祁命(顕宗帝)は彼の追捕を命じます。
程なく「猪甘老人」を発見、都へ召還。
更に、彼を「飛鳥河之河原」で斬首してしますのです。
又、彼の一族郎党の「膝筋(ひざすじ)」も切断、歩行困難にする挙に。
この行為は尋常でないと思いますが・・・・・。
余程、「猪甘老人」に怨念を抱かせる出来事があったのでしょうか?
古事記原作者はこのシンプル記述から各想像しなさい事かしら
  続く。

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