雄略帝の御陵破壊へ配慮 568
次なる展開は「大長谷天皇(雄略帝)」の「御陵」「破壊」事件。
顕宗帝は父親(市辺之押歯王)を殺害した雄略帝への報復として
雄略帝の「御陵破壊」を企図します。
顕宗帝が人を遣わそうとした際、
彼の兄、意冨祁命(後の仁賢帝)はそれを押し止め自ら赴くと進言。
顕宗帝は兄に「御陵破壊」を委ねます。
意冨祁命は雄略帝の御陵へ行き、
御陵の傍らの土を少しばかり持ち帰ります。
帰還した意冨祁命は顕宗帝に早速、「御陵破壊」をご報告。
顕宗帝はあまりにも早い意冨祁命の帰還に
「『如何(どのように)お墓を破壊されました?』とお尋ね。
そこで意冨祁命は
「御陵の傍らの土を少しばかり掘り起こしました」とお答えに。
訝る顕宗帝は
「なぜ、憎き雄略帝の御陵を悉く破壊しなかったのですか?」と。
すると意冨祁命はおもむろに
「顕宗帝の父を思うお気持ちはよく理解できます。
但し、雄略帝は父の『従父(いとこ)』で天皇をされたお方。
父の『仇』のみで御陵破壊は皆様の誹りを招きます。
然るに、父の仇を取るのは当然ですので少しばかり雄略帝の御陵
を掘りました。これで十分雄略帝を辱めたことになります。
又、後の世にもこの事実が語られるでしょう。」とお答え。
顕宗帝は意冨祁命の配慮に感服、その通りにされたとの事。
顕宗帝が崩御されると意冨祁命(=仁賢帝)が即位された。
顕宗帝は「參拾捌歳(38歳)」でお亡くなりになり、
天皇位を「八歳(8年)」お勤めになられた。 続く。
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