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2016年4月30日 (土)

市辺之押歯王の奴末 562

飯豊郎女(飯豊王)の命で山部連小楯が「宰」として針間(播磨)国へ
赴いた際の出来事。
宰(みこともち〈御言持ち〉)は帝の命を持ち地方へ派遣された役人。
その小楯が播磨国の名前を「志自牟(しじむ)」云う方の
「新室(にひむろ)=新築」祝いの「楽(うたげ=宴)」に招かれます。
その宴でお酒が十二分に振る舞われ、酔いしれ
皆さん盛り上がり「酣(たけなわ)」になると浮かれ舞い始めました。
ひとしきりすると酔いどれ親父が竈(かまど)の側にいた少年二人にも
舞うように促します。
その少年らは兄弟で互いに舞う順番を譲り合います。
最終的に兄が先に舞い弟が続きます。
弟が舞う際に歌を詠じました。
但し、この歌はなぜか表音文字表記ではないのです
弟はこの歌の最後で
「所治賜天下 伊邪本和気天皇之御子 市辺之押歯王之 奴末爾」
(履中帝のご子息、市辺之押歯王の今は奴となり果てた末裔)
とおっしゃたのです。
これをお聞きになった小楯はビックリ仰天、
「自床堕転(床から転び堕ちて)」しまったのです。
早速、小楯は宴会をお開きにし、兄弟以外の皆さんを宴会場から
追い出し、二人の「王子」を両膝に乗せ泣き偲びます。
又、播磨の人々を集め「王子」用の「仮宮」を作らせ、お入り頂き、
飯豊郎女(飯豊王)のお住まい、「葛城忍海之高木角刺宮」へ
「駅使(はゆまづかひ)=伝令使者」を向かわせます。
「駅使」からの子細をお聞きになった
「王子」達の叔母、飯豊郎女(飯豊王)は大変お歓びになり
高木角刺宮へお二人をお呼び寄せになりました。  続く。

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2016年4月23日 (土)

飯豊郎女は女帝だったやも 561

白髮大倭根子命(しらかのおほやまとねこのみこと)=(清寧帝)は
女性嫌いだったのか?「無皇后亦無御子」とか。
名代として「白髮部」を設定。こちらは以前、記載されていました。
従って、清寧帝には兄弟もおりませんので
お亡くなりになると継嗣が存在しない状況に陥ります。
又、清寧帝の没年・陵墓も記述されていません。
これは一体どうしたのかしら
疑問ですが、後に考察する事にします。
ところで、
帝不在状況を解消する為に候補者を捜すと居られたのです?
そのお方は
「市辺忍歯別王之妹 忍海郎女 亦名飯豊王」さん。
彼女は「権力奪取闘争履中帝」にて前出の
「市辺之忍歯王 次妹青海郎女 亦名飯豊郎女」さん。
青海郎女(あおみのいらつめ)=忍海郎女(おしぬみのいらつめ)
飯豊郎女(いひとよのいらつめ)=飯豊王(いひとよのみこ)さん。
飯豊郎女(飯豊王)は伊邪本和気命(履中帝)のお嬢さん。
系譜的には安康・雄略帝と同世代に。
宮は
「葛城忍海之高木角刺(かづらきおしぬみのたかきのつぬさし)」。
但し、
「治天下也」との記述がないので帝位につかれたかは不明。
一説に、彼女は清寧帝の奥様でとっても男性嫌いな女性だったとか。
故にお子さんができなかったと云う推論。
とは云うものの彼女の兄、市辺忍歯別王は清寧帝の父、雄略帝に抹殺
された方。
子細は「市辺之忍齒王 淡海(近江)で没す」でご確認を。
故に飯豊郎女(飯豊王)は遺恨があったやも?
又、彼女は清寧帝の伯母様に当たり
清寧帝が怖気(おじけ)づいたやも知れません事?
真相は分かりかねますが、古事記の次の記述で
「爾山部連小楯 任針間(播磨)国之宰時」と有りますので
清寧帝亡き後、飯豊郎女(飯豊王)がリーダー(女帝)だったやも? 
もし、飯豊郎女(飯豊王)が帝位に就かれていても
中皇命(なかつすめらみこと)=中継ぎ女帝になります。
 続く。

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2016年4月16日 (土)

意冨祁命と袁祁命の登場 560

白髮大倭根子命<清寧帝>には奥様とお子さんもいらっしゃらなく
帝位継承が危うい中、
都落ちしていた履中帝のお子様、市邊之忍齒王の息子さん、
意冨祁命(おほけのみこと)と袁祁命(をけのみこと)が登場する
古事記原文です。

白髮大倭根子命<清寧帝>
坐伊波禮之甕栗宮
治天下也
此天皇
無皇后
亦無御子
故御名代
定白髮部
故天皇崩後
無可治天下之王也
於是問日繼所知之王也
市邊忍齒別王之妹
忍海郎女
亦名飯豐王
坐葛城忍海之高木角刺宮也
爾山部連小楯
任針間國之宰時
到其國之人民名志自牟之新室

於是盛樂
酒酣
以次第皆儛
故燒火少子二口
居竈傍
令儛其少子等
爾其一少子曰
汝兄先儛
其兄亦曰
汝弟先儛
如此相讓之時
其會人等
咲其相讓之状
爾遂兄儛訖
次弟將儛時
爲詠曰
物部之我夫子之
取佩於大刀之手上
丹畫著
其緒者載赤幡
立赤幡
見者五十隱
山三尾之
竹矣
本訶岐(此二字以音)

末押靡魚簀
如調八絃琴
所治賜天下
伊邪本和氣天皇之御子
市邊之押齒王之
奴末爾
即小楯連聞驚而
自床墮轉而
追出其室人等
其二柱王子
坐左右膝上
泣悲而
集人民
作假宮
坐置其假宮而貢驛使
於是其姨飯豊王
聞歡而
令上於宮
故將治天下之間
平群臣之祖
名志毘臣
立于歌垣
取其袁祁命將婚之美人手
其孃子者
菟田首等之女
名大魚也
爾袁祁命亦立歌垣
於是志毘臣歌曰
意冨美夜能
袁登都波多傳
須美加多夫祁理
如此歌而
乞其歌末之時
袁祁命歌曰
意冨多久美
袁遲那美許曾
須美加多夫祁禮
爾志毘臣
亦歌曰、
意冨岐美能
許許呂袁由良美
淤美能古能
夜幣能斯婆加岐
伊理多多受阿理
於是王子亦歌曰
斯本勢能
那袁理袁美禮婆
阿蘇毘久流
志毘賀波多傳爾
都麻多弖理美由
爾志毘臣愈忿歌曰
意冨岐美能
美古能志婆加岐
夜布士麻理
斯麻理母登本斯
岐禮牟志婆加岐
夜氣牟志婆加岐
爾王子亦歌曰
意布袁余志
斯毘都久阿麻余
斯賀阿禮婆
宇良胡本斯祁牟
志毘都久志毘
如此歌而
闘明
各退
明旦之時
意冨祁命
袁祁命二柱議云
凡朝廷人等者
旦參赴於朝廷
晝集於志毘門
亦今者志毘亦寢
亦其門無人
故非今者
難可謀
即興軍
圍志毘臣之家
乃殺也
於是二柱王子等
各相讓天下
意冨祁命讓其弟袁祁命曰
住於針間志自牟家時
汝命不顯名者
更非臨天下之君
是既爲汝命之功
故吾雖兄
猶汝命先治天下而
堅讓
故不得辭而
袁毘命
先治天下也

読み解きは来週に。  続く。

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P112の3行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2016年4月 9日 (土)

袁杼姫と大長谷若建命の仲睦まじさ 559

又、この宴会で春日へわざわざ出掛け奥様にした
丸邇(わに)之佐都紀臣のお嬢さん袁杼姫(をとひめ)さんも臨席して
いた模様。
彼女も雄略帝(大長谷若建命)に一献した際、雄略帝の一歌。

美那曾曾久(みな〈水〉そそ〈濯〉く)
淤美能袁登賣(おみ〈臣〉のをとめ〈乙女〉)
本陀理登良須母(ほだり〈秀罇=德利〉と〈取〉らすも)
本陀理斗理(秀罇取り)
加多久斗良勢(かた〈堅〉く取らせ)
斯多賀多久(した〈下〉堅く)
夜賀多久斗良勢(やがたく取らせ)
本陀理斗良須古(秀罇取らすこ〈子〉)

これに対し、袁杼姫も一歌。

夜須美斯志(やすみしし)
和賀淤冨岐美能(わがおほきみ〈大君〉の)
阿佐斗爾波(あさ〈朝〉とには)
伊余理陀多志(いよ〈寄〉りだたし)
由布斗爾波(ゆう〈夕〉とには)
伊余理陀多須(い寄りだたす)
和岐豆紀賀(わきづき〈脇机〉が)
斯多能(下の)
伊多爾母賀(いた〈板〉にもが)
阿世袁(あせを)

このお二人は仲睦まじかった様子がひしひし。
お二人の歌は何か意味深で艶っぽい感じでは・・・・・。  続く。

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2016年4月 2日 (土)

倭の高市は都市国家地区 558

雄略帝(大長谷若建命)と伊勢国の三重采女さんとのやり取りを
ご覧になっておられた大后(大日下王之妹若日下王)が一歌。

夜麻登能(やまと〈倭〉の)
許能多氣知爾(このたけち〈高市〉に)
古陀加流(こだか〈小高〉る)
伊知能都加佐(いち〈市〉のつかさ〈丘〉)
爾比那閇夜爾(にひなへや〈新嘗屋〉に)
淤斐陀弖流(お〈生〉ひだてる)
波毘呂(はびろ〈葉広〉)
由都麻都婆岐(ゆつまつばき〈椿〉)
曾賀波能(そがは〈葉〉の)
比呂理伊麻志(ひろりいま〈坐〉し)
曾能波那能(そのはな〈花〉の)
弖理伊麻須(て〈照〉り坐す)
多加比加流(高光る)
比能美古爾(日の皇子に)
登余美岐(とよみき〈豊御酒〉)
多弖麻都良勢(たてまつらせ)

これに対し、雄略帝(大長谷若建命)は

毛毛志紀能(ももしきの)
淤冨美夜比登波(おほみやひと〈大宮人〉は)
宇豆良登理(うづらとり〈鶉鳥〉)
比禮登理加氣弖(ひれ〈領巾〉と〈取〉りかけて)
麻那婆志良(まなばしら〈鶺鴒=セキレイ〉)      
袁由岐阿閇(を〈尾〉ゆ〈行〉きあ〈合〉へ)
爾波須受米(にはすずめ〈庭雀〉)
宇豆須麻理韋弖(うづすまりいて)
祁布母加母(けふ〈今日〉もかも)
佐加美豆久良斯(さか〈酒〉みづくらし)
多加比加流(高光る)
比能美夜比登(日の宮人)

大后の歌で、
倭のこの「高市」に、小高る「市」の丘と表現されています。
「市」は商品を交換・売買する所。
当然、その所には人々が集まり経済行為が活発になります。
否、逆で権力者、及び、
権力者の取り巻き(「宮人」)らが「市」場を作り管理し
取引税を徴収する構造の場所、所謂、「都市国家」の原型。
故に、人々は「利得」を求めこの場所に結集するのです。
そのような地区での権力者の市場兼邸宅での宴会場での情景描写。
現在この地区は「奈良県高市郡明日香村」と面影が。
それはさて置き、歌は大后の雄略帝をよいしょと
雄略帝の役人(宮人)への気遣い。
伊勢国の三重采女さん・大后・天皇の歌は「天語歌」とか。
何れにせよ、三重采女さんは機転の利いた歌で命拾いしただけでなく
気をよくした雄略帝(大長谷若建命)に沢山のご褒美を頂けたとの事。
 続く。

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