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2015年11月29日 (日)

大長谷若建命の御代に呉人来倭? 544

大長谷若建命(雄略帝)は「長谷朝倉宮」に住まい、
因縁の若日下王を奥様にされた。このお二人にお子さんは不在。
次の奥様も前出、都夫良意富美(葛城円)のお嬢さん「韓(訶良)姫」。
彼女はお二人のお子さんをこの世に。
男の子、白髮命(しらかのみこと)は後の清寧帝に。
そして、
名代設定のお話が続き、何故か突如、

此時呉人参渡来
其呉人安置於呉原
故号其地謂呉原也

大長谷若建命(雄略帝)の御代に「呉人」が来倭(日)したとか。
固有名詞の「呉」は中国史で「春秋時代」と「三国時代」に出現。
春秋時代(BC770~BC403) 呉越同舟の呉
三国時代(222~280) 魏・蜀・呉の呉   の二つ。
と云うことは、大長谷若建命(雄略帝)が活躍した時代はこの頃に?
そんなことは・・・・・。
呉は以前、
「呉服(くれはとり)西素さんって」
「烏丸鮮卑東夷傳(伝) 」
「呉服西素」                         にて登場しています。
応神・仁徳帝の御代でのお話しに出現しています。
ここでは深く詮索せず
この大問題は大事に取っておく事に致しまーす。
いずれの御時に考察してみます。
それでは、前に進みます。
奥様の若日下王が「日下(くさか)」に住まっておられた際、
大長谷若建命(雄略帝)が「河内」に行かれる道中になる為、必ず
奥様の居られる所を通って行かれた。
これは、至極、当然の事ではないのかしら
そして、たまたま?小高い丘から麓(「望国内」)を眺めると
「有上堅魚作舎屋之家」が一際目に映った。
この「堅魚」は堅魚木で屋根の棟に横一列に走る木。
堅魚木の形状は「富山県デジタル文化財ミュージアム」でご確認を。
大長谷若建命(雄略帝)は豪華な家を訝しく思い
誰の家かと尋ねさせた。
すると、この家は「志幾之大縣主(しきのおおあがたぬし)家」と判明。
どうもこの家の造りは帝の邸宅と同じようで荒ぶる大長谷若建命は
志幾之大縣主を「奴(やっこ)乎」と呼び捨て、彼の家を焼き払えと命。
大縣主は畏れおののき、平身低頭(「稽首」)でお詫びします。
彼は詫びの印として「布縶白犬著鈴」を献上、許しを請います。
かの時代白いワンちゃんがいた感じ。
更に、
そのワンちゃんはおしゃれ着?を身に纏い鈴アスセサリー付き。
この贈り物に大長谷若建命は嬉しさのあまり家焼き中止にします。
何かとても「セコイ」感じがしますがいやはや何とも。 続く。

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