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2015年7月26日 (日)

允恭帝 遠飛鳥宮を設営 528

男浅津間若子命(允恭帝)時代から帝のお住まい(都)が
難波地域から倭(大和)地域に移動したことが確認できます。
「坐遠飛鳥宮 治天下也」
この「遠飛鳥宮」は「飛鳥の由来と履中帝御代」で出現した地区。
従って、「近飛鳥宮」・「遠飛鳥宮」の遠近起点が難波地区に。
彼の奥様はお一人で忍坂大中津姫(おさかのおおなかつひめ)。
お二人のお子さんは

1 木梨之軽王(きなしのかるのおう)
2 長田大郎女
3 境之黒日子王
4 穴穗命(安康帝)
5 軽大郎女=衣通郎女
6 八瓜之白日子王
7 大長谷命(雄略帝)
8 橘大郎女
9 酒見郎女

の男5名女4名 計9名様。
この内、お二人が「帝位」にお就きになります。
それよりも、
長男の木梨之軽王と二女の軽大郎女=衣通郎女とのロマンス。
この素敵な関係?は後ほど。
男浅津間若子宿禰命(おあさづまわくごのすくねのみこと)〈允恭帝〉
は最初、長く病気を患っていたので帝位を継ぐことを辞退されたとか。
しかし、
奥様を始め「諸卿」らが説得申し上げられ最終的にお受けになったと。
又、男浅津間若子命(允恭帝)の病は「新良國王(新羅国王)」から
送られた貢ぎ物の届け大使、「金波鎭漢紀武」が薬に造詣が深く、
彼により快癒した感じ。
しかしながら、帝位を継ぐ前か後かは不明。
男浅津間若子命(允恭帝)の御代に「氏姓」の整理整頓。
又、経済的基盤を確立する為
名代として「部」を制定。
木梨之軽太子には「軽部」を。
大后(忍坂大中津姫)には「刑部」を。
大后の弟(=妹)の田井中姫には「河部」を。
設定されたとか。 続く。

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2015年7月19日 (日)

男浅津間若子命(允恭帝)の御代 527

水歯別命(反正帝)の崩御に伴い、
弟の男淺津間若子宿禰命(允恭帝)が帝位を継ぐことになるのですが
彼は病気理由で辞退し続け空位時期が生じたところの
古事記原文です。

男淺津間若子宿禰命(允恭帝)
遠飛鳥宮
治天下也
此天皇
娶意富本杼王之妹
忍坂大中津比賣命
生御子
木梨之輕王
長田大郎女
次境之黒日子王
次穴穗命(安康帝)
輕大郎女
亦名衣通郎女
(御名所以負衣通王者 其身之光 自衣通出也)
次八瓜之白日子王
次大長谷命(雄略帝)
橘大郎女
酒見郎女(九柱)
凡天皇之御子等
九柱(男王五 女王四)
此九王之中
穴穗命者
治天下也
次大長谷命
治天下也
天皇
初爲將所知天津日繼之時
天皇辭而詔之
我者有一長病
不得所知日繼
然大后始而
諸卿等
因堅奏而
乃治天下
此時新良國王
貢進御調八十一艘
爾御調之大使
名云金波鎭漢紀武
此人深知藥方
故治差帝皇之御病
於是天皇
愁天下氏氏名名人等之
氏姓忤過而
於味白檮之
言八十禍津日前
居玖訶瓮而(玖訶二字以音)
定賜天下之八十友緒氏姓也
又爲木梨之輕太子御名代
定輕部
爲大后御名代
定刑部
爲大后之弟田井中比賣御名代
定河部也
天皇
御年漆拾捌歳
御陵在河内之惠賀長枝也

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P92の11行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。  続く。

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2015年7月12日 (日)

水歯別命(反正帝)の御代 526

とてもシンプルな水歯別命(反正帝)時代の古事記原文です。
先ずは原文をご確認下さい。

水齒別命(反正帝)
坐多治比之柴垣宮
治天下也
此天皇
御身之長九尺二寸半
御齒長一寸
廣二分
上下等齊
既如貫珠
天皇
娶丸邇之許碁登臣之女
都怒郎女
生御子
甲斐郎女
都夫良郎女(二柱)
又娶同臣之女
弟比賣
生御子
財王
多訶辨郎女
并四王也
天皇之御年陸拾歳
御陵在毛受野也

たったこれだけなんです。何かあっさりで気が抜ける感じでは。
履中帝の命に従い、姑息な手段で兄を殺害した
水歯別命(反正帝)は「多治比(丹比)之柴垣宮」で政務を。
多治比(丹比)地区は現在、大阪市堺市美原区になります。
そして、何と彼の身長・歯長形状が描写される展開。
イケメンだったかは記載されておらず残念ですが
背が高く、歯並びよく、健康的な体格をされていた感じ?
又、彼の奥様はお二人。 そのお二人は姉妹です。
お子さんは
姉の「都怒郎女」さんがお嬢さん二人、
妹の「弟比賣(姫)」さんが一男一女を設けたとか。 続く。

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P92の3行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2015年7月 5日 (日)

飛鳥の由来と履中帝御代 525

大坂山の辺でにわか仕立ての仮宮で曾婆訶理を斬首した
水歯別命(後の反正帝)は「明日上幸(翌日倭に向かわれた)」。
「故号其地謂近飛鳥也(故にその地を 『〈近〉飛鳥』と云う)」とか。
水歯別命(後の反正帝)は倭国に入ります。
しかしながら、すぐに、履中帝の住まう石上神宮へは向かわず
この地でお祓いを済ませ一泊し、明日、石上神宮へ赴く事に。
そして、
「故号其地謂遠飛鳥也(故にその地を 『〈遠〉飛鳥』と云う)」とか。
翌日、石上神宮に参内し履中帝に奏上。
「政既平訖 參上侍之」
この僅か八文字で
「履中帝の命に従い、墨江中王を殺害し終わり
 履中帝の政が平穏になると参上仕りました」と
表現していることになります。
これにより、漸く、
水歯別命(後の反正帝)は履中帝に謁見でき言葉を交わせたのです。
この後、「始任蔵官 亦給粮地」
大恩の阿知直を「蔵」官吏にし、又、彼に「粮地(耕作地)」を提供。
履中帝の御代に
住まいの伊波礼之若桜宮に因み、
若桜宮に仕える臣下に「若桜部」を与え、
比賣陀君らへは「比賣陀之君」と云う「姓」を与え
「伊波礼部」も定めたとの事。
ここに登場する「比賣陀之君」は以前と言うよりもかなり昔に登場。
「真福寺本 古事記がWEBで」をご確認下さい。
〈9 開化帝〉の処で菟上王=(比賣陀君之祖)と表記されています。
とても時空を超えた展開では・・・・・。
きっと以て、何か深ーい意味合いがあるのでしょう。
これは疑問点して、取り急ぎ前に進みます。 続く。

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