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2015年6月28日 (日)

水歯別命 曾婆訶理を斬首 524

履中帝の所望の通り、墨江中王を亡き者にした水歯別命は
実行者の曾婆訶理を伴い履中帝が住まう石上神宮へ向かう事に。
その途中、大坂山に至り水歯別命の頭をよぎるものが。
それは、ご自分の策略を差し置いた論理展開なのです。
その調子の良い論理はと云うと。

曾婆訶理は私の命に従い墨江中王を殺害した「大功」がある。
しかしながら、
曾婆訶理は自分の主君を殺傷したので「不義」である。
そうではあるが
私は曾婆訶理の「其功」に報(むく)わずば「無信(約束違反)」である。
従って
先ずは約束を果たした後、
不安だから曾婆訶理を「滅其正身(殺害)」してしまおう。

これって、とても身勝手な発想と云わざるを得ません。
そう結論づけた水歯別命(後の反正帝)は曾婆訶理に告げます。
「今日は彼の地の留まり、先にお前に『大臣』の位を給え、
 明日倭に行くことにする」と。
このお話も不可思議、
水歯別命はこの時点では「帝位」についていません。
にも関わらず曾婆訶理に「大臣位」を授けるのでしょうか?
そんな事は無視し、古事記はどんどん前に話を続けます。
大坂山の辺に「仮宮」を造営(一夜城より早い1/4宮)、
「豊楽(宴会)」を催し、
大臣位を与え、
にわか仕立て?の「百官(子役人)」達に拝謁させる顛末。
曾婆訶理はなぜかこの稚拙な「芝居」を疑いもせず本望を遂げ大喜び。
曾婆訶理殺害の水歯別命(後の反正帝)の方法もいたく漫画チック。
顔が隠れるくらいの大きな器になみなみとお酒を注ぎ、
先に水歯別命が口をつけ、
それを幼気(いたいけ)な曾婆訶理に与え、
彼が飲み干す際に
水歯別命は隠し置いていた剣で斬首してしまう始末。
これって「卑怯千万」ってものでは。 続く。

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2015年6月21日 (日)

曾婆加理 墨江中王を殺害 523

阿知直と履中帝が「到幸大坂山口之時」に「遇一女人」。
この女性は一体どのようなお方?
なぜか、
彼女は阿知直と履中帝にとり、有り難い情報を提供するのです。
この大坂山には武器を持った人が大勢おり、山越えを阻止する様子。
故に、「當岐麻道(たぎまみち)」へ迂回して山越えをされた方がと。
ここで、履中帝が一歌。

淤冨佐迦邇(おふさか〈大坂〉に)
阿布夜袁登賣袁(あ〈遇〉ふやをとめ〈乙女〉を)
美知斗閉婆(みち〈道〉と〈問〉へば)
多陀邇波能良受(ただにはの〈告〉らず)
當藝麻知袁能流(たぎま〈當岐麻〉ちを告る)

阿知直と履中帝は彼女のお陰で無事に「石上神宮」に到着。
石上神宮(いそのかみじんぐう)」と
「神話に見る 石上神宮の神様」はこちらで。
そして、何処でこの情報を聞きつけたのか?
履中帝の弟、水歯別命(みずはわけのみこと)(後の反正帝)が
履中帝に拝謁しようと石上神宮に来られた。
履中帝は即座に
「吾疑汝命 若與墨江中王 同心乎故 不相言」と。
水歯別命(反正帝)は
「僕者無穢邪心 亦不同墨江中王」とお答え。
履中帝は
「然者 今還下而 殺墨江中王而 上来 彼時吾必相言」と。
要するに、疑心暗鬼の履中帝は
「難波に引き返し私を殺めようとした墨江中王を殺害した際は
 お前に会って話しを聞いてあげる」って魂胆。
水歯別命(反正帝)は潔白証明の為、早速、難波に引き返します。
只、彼はご自分の手は汚さず、
墨江中王の近臣、隼人出身の「曾婆加理(そばかり)」を懐柔。
その策は
「もし、私に従えば私は帝となりお前を大臣にしてあげる」って事。
曾婆加理はすかさずこの誘惑に乗る始末。
水歯別命(反正帝)は曾婆加理に多額の金銭を与え、然らば
お前が仕える墨江中王を殺害するよう申しつけ。
曾婆加理は墨江中王が「廁」で用を足している時を伺い、狙い
「以矛刺而殺也」。 続く。

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2015年6月14日 (日)

履中帝 火炎の難波宮から脱出 522

伊邪本和気命(いざほわけ)<履中帝>
の奥様・お子様は原文でご確認を。

彼はなぜか?奥様お一人でお子さんは3名とやや現代風?
彼の住まいは伊波礼之若桜宮(いはれのわかさくらのみや)。
中々しゃれたお名前では?
ここからの展開が帝位を巡る権力奪取闘争のお話しに。
仁徳帝(大雀命)の崩御に伴い
伊邪本和気命(いざほわけ)<履中帝>が帝位をお継ぎになり、
初めての新嘗(にいなめ「大嘗(おおなめ)」祭)の際、
ご気分がよろしかった感じでお酒をたくさん召し上がり
ついつい、眠りに入ってしまわれたのです。
この機会に、弟の墨江之中津王(すみえのなかつみこ)が何と
履中帝の帝位を奪うべく難波宮に火を着けてしまうのです。
この事態に履中帝を救ったお方が「倭漢直之祖 阿知直」と。
この阿知直さんは「酩酊の応神帝 石動くと錯視?」で触れました。
以前、「阿知吉師は阿直史等の祖」で「漢直之祖」は同一人物として
扱われていなかったのですが、
この箇所では阿知吉師(阿知直)=(倭)漢直之祖とされています。
(「秦造之祖・漢直之祖の出自」)
阿知吉師は百済からの使者で応神帝の御代?4世紀に来倭の筈。
古事記を時系列で俯瞰してはいけない典型では?
この点は又別の機会に触れます。
一先ず、ここでは無視し前に進みます。
阿知直は履中帝を馬に乗せ倭方面へ待避させたのです。
履中帝は多遅比野(旧丹比郡)でお目覚め。
景色が違うことに気づき阿知直に「此間者何處(ここはどこ?)」と。
阿知直はこの間の子細をご報告。
ここで履中帝は一歌。

多遲比怒邇(たじひのに)
泥牟登斯理勢婆(ね〈眠〉むとし〈知〉りせば)
多都碁母母(たつごもも)
母知弖(もちて)
許揺麻母能(こましもの)
泥牟登斯理勢婆(眠むと知りせば)

何ともいやはや、泰然自若の伊邪本和気命(いざほわけ)<履中帝>。
「波邇賦坂(はにふざか)」に到っておもむろに振り返ると
「望見難波宮 其火猶炳」(難波宮を望むと未だ燃えていた)とか。
ここで、又、履中帝は一歌。

波邇布邪迦(はにふざか)
和賀多知美禮婆(わがた〈立〉ちみ〈見〉れば)
迦藝漏肥能(かぎろひ〈陽炎〉の)
毛由流伊幣牟良(も〈燃〉ゆるいえむら〈家群〉)
都麻賀伊幣能阿多理(つま〈妻〉がいえ〈家〉のあたり) 続く。

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2015年6月 7日 (日)

権力奪取闘争履中帝 521

仁徳帝(大雀命)と石之姫のお子さん達の権力奪取闘争が展開される
ところの古事記原文です。
ちょいと長いですが、伊邪本和氣命(履中帝)の段をすべて。

伊邪本和氣命(履中帝)
坐伊波禮之若櫻宮
治天下也
此天皇
娶葛城之曾都毘古之子
葦田宿禰之女
黒比賣命
生御子
市邊之忍齒王
次御馬王
次妹青海郎女
亦名飯豐郎女(三柱)
本坐盟難波宮之時
坐大嘗而
爲豐明之時
於大御酒宇良宜而
大御寢也
爾其弟墨江中王
欲取天皇
以火著大殿
於是倭漢直之祖
阿知直
盜出而
乘御馬
令幸於倭
故到于多遲比野而
寤詔此間者何處
爾阿知直白
墨江中王
火著二大殿
故率逃於倭
爾天皇
歌曰
多遲比怒邇
泥牟登斯理勢婆
多都碁母母
母知弖
許揺麻母能
泥牟登斯理勢婆
到於波邇賦坂
望見難波宮
其火猶炳
爾天皇
亦歌曰
波邇布邪迦
和賀多知美禮婆
迦藝漏肥能
毛由流伊幣牟良
都麻賀伊幣能阿多理
故到幸大坂山口之時
遇一女人
其女人白之
持兵人等
多塞茲山
自當岐麻道
迴應越幸
爾天皇歌曰
淤冨佐迦邇
阿布夜袁登賣袁
美知斗閉婆
多陀邇波能良受
當藝麻知袁能流
故上幸
坐石上神宮也
於是其伊呂弟水齒別命(反正帝)
參赴
令謁
爾天皇令詔
吾疑汝命
若與墨江中王
同心乎故
不相言
答白僕者無穢邪心
亦不同墨江中王
亦令詔
然者
今還下而
殺墨江中王而
上來
彼時吾必相言
故即還下難波
欺所近習墨江中王之隼人
名曾婆加理
云若汝從吾言者
吾爲天皇
汝作大臣
治天下
那何
曾婆訶理
答白隨命
爾多禄給其隼人曰
然者殺汝王也
於是曾婆訶理
竊伺己王入廁
以矛刺而殺也
故率曾婆訶理
上幸於倭之時
到大坂山口
以爲
曾婆訶理
爲吾雖有大功
既殺己君
是不義
然不賽其功
可謂無信
既行其信
環惶其情
故雖報其功
滅其正身
是以詔曾婆訶理
今日留此間而
先給大臣位
明日上幸
留其山口
即造假宮
忽爲豐樂
乃於其隼人
賜大臣位
百官令拜
隼人歡喜
以爲遂志
爾詔其隼人
今日與大臣
飮同盞酒
共飮之時
隱面大鋺
盛其進酒
於是王子先飮
隼人後飮
故其隼人飮時
大鋺覆面
爾取出置席下之劔
斬其隼人頸
乃明日上幸
故號其地謂近飛鳥也
上到于倭
詔之
今日留此間
爲祓禊而
明日參出
將拜神宮
故號其地謂遠飛鳥也
故參出石上神宮
令奏天皇
政既平訖
參上侍之
爾召入而
相語也
天皇
於是以阿知直
始任藏官
亦給粮地
亦此御世
於若櫻部臣等
賜若櫻部名
又比賣陀君等
賜姓謂比賣陀之君也
亦定伊波禮部也
天皇之御年
陸拾肆歳
御陵在毛受也

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P88の13行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。

 続く。

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