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2015年5月31日 (日)

高樹は枯野(高速船)・薪・琴に 520

ここのところはとても幻想的な展開です。
当然、仁徳帝(大雀命)の時代のお話し。
「免寸(とのき)河」の西に樹齢何千年の「高樹」が有ったそうな。
(この河の場所は全く不明。)
そして、この「高樹」の影は
「旦日(朝日)」が当たると「淡道嶋(淡路島)」に届き、
夕日が当たると「高安山」を越えたのだとか。
(この山は現在の大阪府八尾市内に存在する地名に。)
そんな神々しい「高樹」を何故か伐採し造船したそうな。
その船は「捷行(高速)」だったので「枯野」と命名とか。
「枯野」と高速船との因果は幻想的?で不明。
尚、この高速船は一日に二度(朝夕)「淡道嶋(淡路島)之寒泉」の
(「寒泉」は夏でも冷たい湧き水なのかしら?)
運搬用に供していたとか。
この美味しい?「大御水」を難波宮に献上していたそうな。
高速船、「枯野」は耐用年数が越えたのか役目を終える事に。
日本人は昔から物を大切にしていたようで塩焼き用の薪に供されたと。
又、残った木材で「琴」を作ったところ、
その琴の音(ね)は「七里」四方に響き渡ったとか。
この一里は以前の尺貫法の距離、約3,927.2mではなく
大宝律令制時代では一里=五町=300歩で、約533.5mに。
七里=3,734.5mになり、この琴はビッグボリューム音源。
そして、この状況が歌で、

加良怒袁(からぬ〈枯野〉を)
志本爾夜岐(しほ〈塩〉にや〈焼〉き)
斯賀阿麻理(しがあま〈余〉り)
許登爾都久理(こと〈琴〉につく〈作〉り)
加岐比久夜(か〈掻〉きひ〈弾〉くや)
由良能斗能(ゆら〈「由良」〉のと〈門〉の)
斗那加能(門なか〈中〉の)
伊久理爾(いくりに)
布禮多都(ふれた〈立〉つ)
那豆能紀能(なづのき〈木〉の)
佐夜佐夜(さやさや)

「由良の門」は
紀淡海峡。特に、兵庫県洲本市由良の付近。
ここで、仁徳帝(大雀命)の描写が終了。 続く。

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2015年5月24日 (日)

仁徳帝とこの世長人、建内宿禰命 519

仁徳帝(大雀命)は「豊楽(宴)」の為に「日女嶋(姫島)」へ
お出かけになった際、その日女嶋(姫島)で
「鴈〈雁〉生卵(雁が卵を産む)」光景をご覧になった。
雁がこの地で産卵することはとても珍しいので
仁徳帝は建内宿禰命をお呼びになり歌でお尋ねになった。

多麻岐波流(たまきはる)
宇知能阿曾(うち〈内〉のあそ〈朝臣〉)
那許曾波(な〈汝〉こそは)
余能那賀比登(よ〈世〉のながひと〈長人〉)
蘇良美都(そらみつ)
夜麻登能久邇爾(やまと〈倭〉のくに〈国〉に)
加理古牟登(かり〈雁〉こむ〈卵生〉と)
岐久夜(き〈聞〉くや)

建内宿禰命は
孝元帝のお孫さん。
そして、仲哀帝・神功皇后の側近、応神帝の参謀として
活躍されたお方。
建内宿禰命については
「真福寺本 古事記がWEBで」
「倭建命の息子が仲哀帝に」
「神懸かり神功皇后のご神託」
「神功皇后 新羅・百済と好を結ぶ」
「香坂王 忍熊王の出生秘密」 でご確認を。
そのお方が、この仁徳帝(大雀命)のコーナーにも登場されるのです。
確かに実在のお方なら「この世長人(長寿)」を全うされています。

彼は仁徳帝のお尋ね、
「倭国で雁が産卵した事はあるか?」の問いに歌でお答えします。

多迦比迦流(たかひ〈高光〉かる)
比能美古(ひ〈日〉のみこ〈御子=皇子〉)
宇倍志許曾(うべしこそ)
斗比多麻閇(とひたまへ)
麻許曾邇(まこそに)
斗比多麻閇(と〈問〉ひたまへ)
阿禮許曾波(あれこそは)
余能那賀比登(世の長人)
蘇良美都(そらみつ)
夜麻登能久邇爾  (倭の国に)
加理古牟登(雁卵生と)
伊麻陀岐加受(いまだき〈聞〉かず)

「わたくしも未だかって倭国で『雁卵生』と聞いた事はございません。」
とお答え、更に今度は「御琴」を頂き、琴の音と共に歌でお答え。

那賀美古夜(汝が御子=皇子や)
都毘邇斯良牟登(つひ〈遂〉にしらむと)
加理波古牟良斯(雁は卵生らし)

建内宿禰命が
仁徳帝(大雀命)を「汝が御子=皇子」とお呼びされています。
建内宿禰命は長寿故の云い方なのかも。
難波地域を商業都市国家と築き上げた仁徳帝(大雀命)。
それに対し、雁は遂(つい)にやり遂(と)げられと称え
弥栄(いやさか)と彼の地に世にも珍しい卵を産んだのでしょう。
又、この歌は「本岐歌(ほきうた)之片歌」と。
「本岐歌(祝歌)」は祝い称える歌。
「片歌(かたうた)」は問答等に用いられた歌。
従って、「歌」はsongではなく古代の口語での遣り取りに。 続く。

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2015年5月17日 (日)

建内宿禰命 再登場 518

建内(武内)宿禰命がここで再登場します。
彼は孝元帝のお孫さん。
仁徳帝(大雀命)と建内(武内)宿禰命の
会話が伺える古事記原文です。

亦一時
天皇
爲將豐樂而
幸行日女嶋之時
於其嶋鴈生卵
爾召建内宿禰命
以歌
問鴈生卵之状
其歌曰
多麻岐波流
宇知能阿曾
那許曾波
余能那賀比登
蘇良美都
夜麻登能久邇爾
加理古牟登
岐久夜
於是建内宿祢
以歌語白
多迦比迦流
比能美古
宇倍志許曾
斗比多麻閇
麻許曾邇
斗比多麻閇
阿禮許曾波
余能那賀比登
蘇良美都
夜麻登能久邇爾
加理古牟登
伊麻陀岐加受
如此白而
被給御琴
歌曰
那賀美古夜
都毘邇斯良牟登
加理波古牟良斯
此者本岐歌之片歌也
此之御世
免寸河之西
有一高樹
其樹之影
當旦日者
逮淡道嶋
當夕日者
越高安山
故切是樹以
作船
甚捷行之船也
時號其船
謂枯野
故以是船
旦夕酌淡道嶋之寒泉
獻大御水也
茲船破壞以
燒鹽
取其燒遣木
作琴
其音響七里
爾歌曰、
加良怒袁
志本爾夜岐
斯賀阿麻理
許登爾都久理
加岐比久夜
由良能斗能
斗那加能
伊久理爾
布禮多都
那豆能紀能
佐夜佐夜
此者志都歌之返歌也
此天皇
御年捌拾參歳
御陵在毛受之耳(上)原也

読み解きは来週に。  続く。

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P87の4行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2015年5月10日 (日)

女鳥王の玉釧(ブレス)ドラマ 517

女鳥王と速総別王の殺害を仁徳帝(大雀命)に命令された軍団長は
山部大楯連(やまべのおおたてのむらじ)さん。
このオッサンはとても心狭くセコイ方。
女鳥王を殺害した際、何と不届きか、彼女の「玉釧(たまくしろ)」を
奪い、自分の「妻(連れ合い)」にあげたのです。

*釧は小玉・小鈴等で装飾されたブレスレット。玉釧の玉は美称。
 昨今ではスワロスキーが鏤(ちりば)められたブレス感じ。

暫くして、「豊楽(宴)」の催しが宮中にて開催。
「氏氏之女(豪族とその奥様)」の方々が招待される事に。
「皆朝参」から宮中と推察できるのですがここで不可思議な事が。
この催しであの嫉妬妻、石之姫命が接待。
彼女は意地を通し難波に帰らず、
山代〈城・背〉国の養蚕家、奴理能美の邸宅に留まっていた筈。
それとも、後に彼女は女心を折り、難波にお戻りになったのか?
その石之姫命、おん自ら「柏(盃)」を皆さんにお配りになるのです。
そしてドラマが。
この宴に山部大楯連の奥様も招かれていたのです。
女性達はさぞかし、ドレスアップされご出席されたのでしょう。
山部大楯連の奥様はあの玉釧がとてもお気に入りだったのでしょう。
ここぞとばかり輝くブレスをお付けになっていたのです。
そのブレスに石之姫命は即、気づくのです。
あのブレスはわたくしの恋い敵、八田若郎女の妹、女鳥王の持ち物と。
子細を想像できた石之姫命は山部大楯連の連れ合いには盃を渡さず
宴からの退出を促します。
何も事情を知らない山部大楯連の連れ合いは突然の出来事に
さぞビックリされた事でしょう。
山部大楯連は早速召し出され「死刑」に処せられた。
ここの描写の驚きは
「膚温剥持来」(膚〈はだ〉も温けきに、剥ぎ持て来て)
とてもリアルで直観的な表現。
石之姫命がまさに現場にいらした感の激描写です。 続く。

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2015年5月 3日 (日)

女鳥王と速総別王の逃避行 516

仁徳帝(大雀命)の怒りを知り、
女鳥王と速総別王のお二人は仲良く逃亡。
「倉椅山=久良波斯夜麻(くらはしやま)」を目指し避難。
この倉椅(=橋)と云う地名は現在、奈良県桜井市倉橋と残存。
その際、速総別王が一歌。

波斯多弖能(はしたての)
久良波斯夜麻袁(くらはしやま〈倉椅山〉を)
佐賀志美登(さが〈嶮〉しみと)
伊波迦伎加泥弖(いは〈岩〉かきかねて)
和賀弖登良須母(わ〈吾〉がて〈手〉と〈取〉らすも)

又、一歌。

波斯多弖能(はしたての)
久良波斯夜麻波(倉椅山は)
佐賀斯祁杼(嶮しけど)
伊毛登能煩禮波(いも〈妹〉とのぼ〈登〉れは)
佐賀斯玖母阿良受(嶮しくもあらず)

仲良しさん同士の空間はいやはや何とも素敵・・・・・。
更に、お二人は倉椅山から「宇陀之蘇邇(そに)」へ逃避。
宇陀の蘇邇と云う地名は現在、奈良県宇陀郡曽爾(そに)村に。
お二人の倉椅山から約20㎞東の蘇邇逃避行をGoogle Earth でご確認を。

女鳥王と速総別王の逃避行

しかし、難波からの仁徳帝(大雀命)軍はこの蘇邇で追いつき
お二人を捕獲・殺傷してしまうのです。
お二人は他界しますが、この愛の凝縮した時空間は
お二人にとって至福であったと考えます。  続く。

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