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2015年4月26日 (日)

女鳥王の懇願、隼は雀を殺めて 515

女鳥王の織っている生地が速総別王の「襲(おすひ)」と知り
仁徳帝(大雀命)は「知其情(女鳥王のお気持ち)」。
時の最高権力者を目の前にして
彼の庇護を大胆不敵にも拒否した女鳥王。
とっても、素敵なお方。 女性の鑑です?
きっぱり・はっきりお断りされた仁徳帝(大雀命)は
すごすごお家の帰る始末。
丁度(ちょうど)か計ったようにか
この時、速総別王は彼女の所に戻ります。
彼女はご自分のお部屋にずかずかおいでになった仁徳帝(大雀命)に
カチンときたのか?彼に歌で訴えます。

比婆理波(ひばり〈雲雀〉は)
阿米邇迦氣流(あめ〈天〉にかけ〈翔〉る)
多迦由玖夜(高行くや)
波夜夫佐和氣(速総〈隼〉別)
佐邪岐登良佐泥(さぎき〈鷦鷯〉と〈取〉らさね)

*鷦鷯(さぎき)は、ミソサザイの古名とか。

雲雀はスズメ目ヒバリ科の小鳥。
鷦鷯はスズメ目ミソサザイ科の小鳥。
隼はタカ目ハヤブサ科の鳥。
圧倒的に隼は雲雀・鷦鷯に比して大きく、空高く飛翔します。
大胆にも女鳥王は
「隼=速総別王に鷦鷯=仁徳帝(大雀命)を懲らしめて!」って。
余談ですが、鷦鷯は鳴き声が良く、一夫多妻とか。
女鳥王の速総別王への多分「囁(ささや)き」と思われますが
この囁きがオカシイ事に仁徳帝(大雀命)の耳に届いてしまうのです。
決して、
女鳥王はこの憚(はばか)る事を大声でおっしゃたとは思えません。
彼女のお側におられたどちら様かがチクッタのでしょう?
女鳥王に肘鉄を食らった仁徳帝(大雀命)は
大人の振る舞いでどうにか平静を保とうとされたと思うのですが
さすがにこの情報をお聞きになっては動揺。
愛しい八田若郎女の妹に当たる女鳥王とイケメン?の速総別王の
殺害する為、軍(武力軍団)を動かします。 続く。

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2015年4月19日 (日)

仁徳帝(大雀命)を袖にする女鳥王 514

仁徳帝(大雀命)もご多分に漏れずとても恋多きお方なのです。
あのお子様に恵まれなかった八田若郎女への思いにも関わらず
なな、何と彼女の妹、女鳥王も好きになり、ちょっかいを。
彼女らの系譜は「応神帝は10名の奥様を」でご確認を。
仁徳帝(大雀命)は思いを女鳥王に自ら告(コク)らず
弟の速総別王(前出は速総別命)を恋のメッセンジャーに仕立てます。
速総別王(速総別命)も先ほどの系譜に登場しています。
当然、女鳥王と速総別王は応神帝を父とする異母兄弟姉妹。
仁徳帝(大雀命)の命の通り、
速総別王は帝の気持ちを女鳥王に伝えます。
すると彼女は速総別王に大胆・率直に思いを吐露。
「帝の奥様はとっても怖く、私の姉、八田若郎女もお困り様子。
 だから、わたくし、やめとくわ。」
「それより、わたくしを貴男の妻になさらない!」
と云う、女鳥王からの逆告白です。
たぶん、速総別王は女鳥王をお好きだったのでしょう?
お若い二人は、「即相婚」。 婚(くな)ぐ=合体
只、速総別王はこの経緯(いきさつ)を仁徳帝(大雀命)のお叱りを
畏れたのかご報告されなかったのです。
帝のお好きな女性を(女鳥王からのモーションとは云え)横取りした
のですからばつが悪かったのでしょう。
速総別王から色よい返事がなかったので
仁徳帝(大雀命)はいてもたってもいられなく
おん自ら女鳥王のお部屋をご訪問。
女鳥王は云うと「機(はた)」で「織服」(生地作製)の最中でした。
すかさず仁徳帝(大雀命)は歌で(彼女の気持ちを)探ります。

賣杼理能(めどり〈女鳥〉の)
和賀意富岐美能(わ〈吾〉がおほきみ〈王〉の)
淤呂須波多(お〈織〉ろすはた〈服〉)
他賀(た〈誰〉が)
多泥呂迦母(たね〈料〉ろかも)      料は為(ため)

女鳥王は平然と歌でお答えします。

多迦由久夜(たかゆ〈高行〉くや)
波夜夫佐和氣能(はやぶさわけ〈速総別〉の)
美淤須比賀泥  (みおすひ〈御襲〉がね)

すげなく、仁徳帝(大雀命)を袖にする女鳥王。       続く。

*襲(おすい)は頭から被って衣裳の上を覆う服。

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2015年4月12日 (日)

女鳥王と速総別王との恋物語 513

ご自分の意思を明確・忠実に恋を貫いた
女鳥王(めどりのみこ)と速総別王(はやぶさわけのみこ)。
とても人間臭く描写された古事記原文です。

亦天皇
以其弟速總別王
爲媒而
乞庶妹女鳥王
爾女鳥王
語速總別王曰
因大后之強
不治賜八田若郎女
故思不仕奉
吾爲汝命之妻
即相婚
是以速總別王
不復奏
爾天皇直幸女鳥王之所坐而
坐其殿戸之閾上
於是女鳥王
坐機而
織服
爾天皇歌曰
賣杼理能
和賀意富岐美能
淤呂須波多
他賀
多泥呂迦母
女鳥王答歌曰
多迦由久夜
波夜夫佐和氣能
美淤須比賀泥
故天皇
知其情
環入於宮
比時
其夫速總別王到來之時
其妻女鳥王歌曰
比婆理波
阿米邇迦氣流
多迦由玖夜
波夜夫佐和氣
佐邪岐登良佐泥
天皇聞此歌即興軍
欲殺
爾速總別王女鳥
共逃退而
騰于倉椅山
於是速總別王歌曰
波斯多弖能
久良波斯夜麻袁
佐賀志美登
伊波迦伎加泥弖
和賀弖登良須母
又歌曰
波斯多弖能
久良波斯夜麻波
佐賀斯祁杼
伊毛登能煩禮波
佐賀斯玖母阿良受
故自其地逃亡
到宇陀之蘇邇時
御軍追到而
殺也
其將軍山部大楯連
取其女鳥王
所纏御手之玉釧而
與己妻
此時之後
將爲豊樂之時
氏氏之女等
皆朝參
爾大楯連之妻
以其王之玉釧
纏于己手而參赴
於是大后石之日賣命
自取大御酒柏
乃引退
召出其夫大楯連以
詔之
其王等
因无禮而
退賜
是者無異事耳
夫之奴乎
所纏己君之御手玉釧
於膚熅剥持來             
即與己妻
乃給死刑也

読み解きは来週に。  続く。

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P85の5行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2015年4月 5日 (日)

仁徳帝、女性達へ全方位外交 512

仁徳帝は早速、難波を発ち山代(城・背)の奴理能美邸に向かいます。
奴理能美邸に到着すると奴理能美は蚕を石之姫命に献上。
仁徳帝は石之姫命が住まう「殿戸(御殿戸口)」にて歌で訴えます。

綾藝泥布(つぎねふ)
夜麻斯呂賣能(山代〈城・背〉め(女)の)
許久波母知(木鍬持ち)
宇知斯意冨泥(打ちし大根)
佐和佐和爾(さわさわに)
那賀伊幣勢許曾(ながい〈言〉へせこそ)
宇知和多須(うちわたす)
夜賀波延那須(やがはえなす)
岐伊理麻韋久禮(きい〈来入〉りまゐく〈参来〉れ)

「大勢引き連れ貴女を迎えに来たよ」ってな感じ。
この後、古事記はこのお二人について黙して語っていません。
大人の和解したのか、或いは、
石之姫命が意地を通し難波にお帰りにならなかったのか、不明。
只、続く古事記の描写は
仁徳帝と八田若郎女との愛溢れる歌の遣り取りになります。
然るに、石之姫命は女の意地?をお通しになったのでしょう。
お子さんに恵まれなかった八田若郎女をお気遣いになる仁徳帝の
お気持ちが滲む歌。

夜多能(やた〈八田〉の)
比登母登須宜波(ひともとすげ〈一本菅〉は)
古母多受(こも〈子持〉たず)
多知迦阿禮那牟(た〈立〉ちかあ〈荒〉れなむ)
阿多良須賀波良(あたらすがはら〈菅原〉)
許登袁許曾(こと〈言〉をこそ)
須宜波良登伊波米(すがはら〈菅原〉とい〈言〉はめ)
阿多良須賀志賣(あたらすが〈清〉しめ〈女〉)

貴女は子が授からなく寂しい思いであるが
いつも「清し女(健気で爽やかで気持ちがよい)お人」。
それに対し八田若郎女も歌で答えます。

夜多能(八田の)
比登母登須宜波(一本菅は)
比登理袁理登母(ひとり〈一人〉お〈居〉りとも)
意冨岐彌斯(おほきみ〈大君〉し)
與斯登岐許佐婆(よ〈良〉しとき〈聞〉こさば)
比登理袁理登母(一人居りとも)

帝がそれ(独り身)で良いとおっしゃるなら、
わたくしはちっとも寂しくはありませんわよ。
とても素敵な遣り取りではございませんか。
仁徳帝は八田若郎女の為、「名代(帝直轄の私有民)」を
彼女に因んだ名前の「八田部」とお定めになった。 続く。

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