« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »

2015年3月29日 (日)

蚕の繭は絹布の貴重な原材料 511

口日女の歌での訴えをお聞きなった石之姫命は口日女に確認。
口日女ははっきり「僕之兄口子臣也」。
さんざ意地悪され、外でずぶ濡れになっっている男性は
わたくしの兄なのですと。
事情を知った石之姫命は黙認。
漸く、口子臣は邸宅に入る事を許されたのです。
石之姫命は仁徳帝の歌(お手紙)を受け取ったと思いますが
一向に難波にお帰りになる様子がございません。
仕方なく、口子臣は妹、口姫と奴理能美との三人で
石之姫命の奴理能美邸滞在誤魔化し理由を打ち合わせます。
而してその考えだ出した仁徳帝への口実

「奴理能美之所養虫
 一度為匐虫 (蚕)
 一度為殻   (繭)
 一度為飛鳥 (蛾)
 有変三色之奇虫
 看行此虫而
 入坐耳
 更無異心」

「奴理能美邸が世にも珍しい虫を「養(飼)」っているので
 帝の大后はその虫見たさに彼の邸宅にお邪魔していただけです。
 それ以外、何んにも他意はございません。」

この口実を携え口子臣は難波へ赴き、仁徳帝にご報告。
すると、仁徳帝は大后、石之姫命逢いたさに
「わたしもその虫を見てみたい。」と奴理能美邸へ向かうのです。
因みに、「三色之奇虫」は匐虫=蚕・殻=繭・ 飛鳥=蛾。
お蚕さんには申し訳ないですが、繭は絹布の貴重な原材料。
かの時代?奴理能美は養蚕をしていた事が伺われます。 続く。

| | コメント (0)

2015年3月22日 (日)

丸邇臣口子 青摺衣が紅色に 510

仁徳帝のメッセージを携えた丸邇臣口子。
丸邇臣口子は仁徳帝の気持ちを察し、
いち早く石之姫命にこのお手紙を届けようとします。
石之姫命のお住まいに到着した時は生憎(あいにく)の雨。
しかしながら、
丸邇臣口子は降りしきる雨にもめげず石之姫命の館の表玄関で
石之姫命のお出ましの機会を伺う事に。
只、
どうも石之姫命は仁徳帝のメッセンジャーの存在に気づいていたらしく
大人げない振る舞いに及びます。
その大人げない意地らしい振る舞いは
丸邇臣口子が表玄関に居る際は勝手口(裏玄関)からお出まし、
彼が勝手口(裏玄関)で待ち伏せる時は表玄関から外出する挙。
丸邇臣口子もフェイントを使えばよいもののそうはせず、実直に
表玄関と裏玄関を「匍匐(ほふく)」で行き来。
可哀想な事にその日の雨は土砂降りだった感じ。
表玄関、裏玄関の前で「跪(ひざまず)」ている際、
腰部分に達する迄の雨量。
幾ら足の短い?丸邇臣口子と云えども
これって土砂降りを越える
今日日流行(はやり)のゲリラ豪雨じゃなかったのかしら
丸邇臣口子のお召し物は「服着紅紐青摺衣」。
青摺衣(あおずりころも)は糊貼りの白絹に
藍の葉、又は青色の草で花鳥等の模様を青く摺りつけ染め衣。
そしてその衣の止め紐は高価なの一品。
ちょいと信じがたい水嵩(かさ)ですが匍匐前進、庭での跪きで
丸邇臣口子のお召し物は水浸し。
その結果、なな何と、
彼の衣は紅花染め紐の赤が浸潤し赤色に変色してしまったとか。
そして、描写スポットが館の中に変貌。
又々、信じがたいのですが丸邇臣口子の妹さん(「口日賣」)が
石之姫命住まうこの館で彼女に「仕」えていたのです。
彼女はこの間の経緯(いきさつ)をご覧になっていたのでしょう。
口日女は兄の無様(ぶざま)な光景を見ていられず
思わず「歌」で石之姫命に訴えるのです。

夜麻斯呂能(山代〈城・背〉の)
都都紀能美夜邇(つつき〈筒木〉のみや〈宮〉に)
母能麻袁須(ものまを〈申〉す)
阿賀勢能岐美波(あ〈吾〉がせ〈兄〉のきみ〈君〉は)
那美多具麻志母(なみだ〈涙〉ぐましも)

「私のお兄ちゃんは石之姫命にお会いしたく
 涙ぐましい振る舞いをしているのです。」ってな感じ。 

又、石之姫命が滞在していた筒木宮は
現在の京都府京田辺市にあったとされています。
余談ですが、この京田辺市は「かぐや姫」の里とも。
私ども ZIPANGU スタッフのお爺ちゃんが
今まさに、このかぐや姫に嵌っているんです。
と云うよりも、今年からオンエアされているauのCM、
「桃太郎・金太郎・浦島太郎」シリーズにゾッコン。
そのCMに桃太郎の彼女としてかぐや姫がエントリーされた模様。
時間が許せば、
「かぐや姫(kagu-chan)登場で桃太郎(momo-chan)幸せに」
「momo-chan kin-chan ura-chan が醸し出す超絶CM」をどうぞ。 続く。

| | コメント (0)

2015年3月15日 (日)

鳥山 丸邇臣口子が和解使者 509

石之姫命が山代〈城・背〉国から難波方面へ向かった聞き、
仁徳帝は鳥山と「謂」う「舎人(側用人)」に歌(お手紙)を託します。
鳥山と云う位ですから彼は空飛ぶ程の健脚持ちだったのでしょう。
而して、そのお手紙は

夜麻斯呂邇(山代〈城・背〉に)
伊斯祁登理夜麻(い〈行〉しけとりやま〈鳥山〉)
伊斯祁伊斯祁(行しけ行しけ)
阿賀波斯豆摩邇(あ〈吾〉がは〈愛〉しづま〈妻〉に)
伊斯岐阿波牟迦母(行しきあ(遇)わむかも)

このメッセージは石之姫命に「帰って来て」と云う切迫感表現か。
只、このトライは失敗に終わった感じ。
次なる使者は
「丸邇臣口子(わにのおみ くにこ)」さん。彼に託した歌は

美母呂能(みもろの)
曾能多迦紀那流(そのたか〈高〉き〈城〉なる)
意冨韋古賀波良(おほゐこがはら)
意冨韋古賀(おほゐこが)
波良邇阿流(はら〈腹〉にある)
岐毛牟加布(きも〈肝〉むかふ)
許許呂袁陀邇迦(こころ〈心〉にだにか)
阿比淤母波受阿良牟(あひ〈相〉おも〈思〉はずあるむ)

ここは仁徳帝の石之姫命への切ない思い表現か。

都藝泥布(つぎねふ)
夜麻志呂賣能(山代〈城・背〉め(女)の)
許久波母知(こくは〈木鍬〉も〈持〉ち)
宇知斯淤冨泥(う〈打〉ちしおほね〈大根〉)
泥士漏能(ねじろ〈根白〉の)
斯漏多陀牟岐(しろ〈白〉ただむき)
麻迦受那婆許曾(ま〈枕〉かずけばこそ)
斯良受登母伊波米(し〈知〉らずともい〈言〉はめ)

ここでは仁徳帝の「女心」を知らな過ぎる拙く・淡い訴え表現。
確かに石之姫命とは一度とは云えず、

大后 石之姫命のお子様
大江之伊邪本和気命〈履中帝〉
墨江之中津王
蝮之水歯別命〈反正帝〉
男浅津間君子宿禰命〈允恭帝>    (四柱)

少なくても、最低四回、愛の契りを交わしています。
にも関わらず、
彼女(石之姫命)を蔑(ないがし)ろするその思慮足らずの振る舞いに
拗ねている嫉妬心はそうそう消し去れるものでは・・・・・。 続く。

| | コメント (0)

2015年3月 8日 (日)

三色之奇虫 匐虫(蚕) 殻(繭) 飛鳥 508

八田若郎女と昼夜、愛に耽っておられた仁徳帝、
ふと気づくと奥様の石之姫命が紀(木)国から難波宮に戻らず
山代(城・背)へ赴き、奴理能美邸に滞在している事実を耳にします。
その情報に対応する仁徳帝。その箇所の古事記原文です。
又、ここでの描写に「絹」の原料「三色之奇虫(蚕・繭)」も登場。

天皇
聞看大后自山代上幸而
使舎人名謂鳥山人
送御歌曰
夜麻斯呂邇
伊斯祁登理夜麻
伊斯祁伊斯祁
阿賀波斯豆摩邇
伊斯岐阿波牟迦母
又續遣丸邇臣口子而
歌曰
美母呂能
曾能多迦紀那流
意冨韋古賀波良
意冨韋古賀
波良邇阿流
岐毛牟加布
許許呂袁陀邇迦
阿比淤母波受阿良牟
又歌曰
都藝泥布
夜麻志呂賣能
許久波母知
宇知斯淤冨泥
泥士漏能
斯漏多陀牟岐
麻迦受那婆許曾
斯良受登母伊波米
故是口子臣
白此御歌之時
大雨
爾不避其雨
參伏前殿戸者
違出後戸
參伏後殿戸者
違出前戸
爾匍匐進赴
跪于庭中時
水潦至腰
其臣
服著紅紐青摺衣故
水潦拂紅紐青皆變紅色
爾口子臣之妹
口日賣
仕奉大后
故是口日賣歌曰
夜麻斯呂能
都都紀能美夜邇
母能麻袁須
阿賀勢能岐美波
那美多具麻志母
爾大后問其所由之時
答白僕之兄口子臣也
於是口子臣
亦其妹口比賣
及奴理能美
三人議而
令奏天皇云
大后幸行所以者
奴理能美之所養虫
一度爲匐虫
一度爲殻
一度爲飛鳥
有變三色之奇虫
看行此虫而
入坐耳
更無異心
如此奏時
天皇詔
然者吾
思奇異故
欲見行
自大宮上幸行
入坐奴理能美之家時
其奴理能美
己所養之三種虫
獻於大后
爾天皇
御立其大后所坐殿戸
歌曰
綾藝泥布
夜麻斯呂賣能
許久波母知
宇知斯意冨泥
佐和佐和爾
那賀伊幣勢許曾
宇知和多須
夜賀波延那須
岐伊理麻韋久禮
此天皇與大后所歌之六歌者
志都歌之返歌也

天皇
戀八田若郎女
賜遣御歌
其歌曰
夜多能
比登母登須宜波
古母多受
多知迦阿禮那牟
阿多良須賀波良
許登袁許曾
須宜波良登伊波米
阿多良須賀志賣
爾八田若郎女
答歌曰
夜多能
比登母登須宜波
比登理袁理登母
意冨岐彌斯
與斯登岐許佐婆
比登理袁理登母
故爲八田若郎女之御名代
定八田部也

読み解きは来週に。  続く。

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P82の10行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。

| | コメント (0)

2015年3月 1日 (日)

石之姫命の心的現象乱れ彷徨 507

都藝泥布夜(つぎねふや)
夜麻志呂賀波袁(やましろがは〈山代川〉を)
迦波能煩理(かは〈川〉のぼ〈上〉り)
和賀能煩禮婆(わが上れば)
迦波能倍邇(川のへ〈傍〉に)
淤斐陀弖流(お〈生〉ひだ〈立〉える)
佐斯夫袁(さしぶを)
佐斯夫能紀(さしぶのき〈木〉)
斯賀斯多邇(しがした〈下〉に)
淤斐陀弖流(生ひ立てる)
波毘呂(はびろ〈葉広〉)
由都麻都婆岐(ゆつまつばき〈椿〉)
斯賀波那能(し〈其〉がはな〈花〉の)
弖理伊麻斯(て〈照〉りいまし)
芝賀波能(し〈其〉が葉の)
比呂理伊麻須波(ひろ〈広〉りいま〈在・坐〉すは)
淤冨岐美呂迦母(おほきみ〈大君〉ろかも)

石之姫命は難波津から堀江を経て山代川を遡り山城(山背)国に
向かう川傍の様子を物語っています。
川沿いには「さしぶの木(南燭〈しゃしゃんぼ〉)」が生い茂り、
そのしゃしゃんぼの木の下に葉の広い椿の木。
そして椿の花が照り輝いている。
そして次の語り
「其が葉の 広り在すは 大君ろかも」
『椿の葉が広くていらっしゃるには 大君ろかも』
これって、
「大君(仁徳帝)は多情のお方」って揶揄されておられるのかしら

更に石之姫命は(仁徳帝の浮気)を予想していたものの
心の動揺を隠せず、山城(山背)国へ入るやいなや
踵を返し舟を逆走、「那良(奈良)山口」に到着して一歌。

都藝泥布夜(つぎねふや)
夜麻志呂賀波袁(山代川を)
美夜能煩理(みや〈宮〉上り)
和賀能煩禮婆(わが上れば)
阿袁邇余志(あをによし)
那良袁須疑(なら〈奈良〉をす〈過〉ぎ)
袁陀弖(をだて)
夜麻登袁須疑(やまと〈倭〉をす〈過〉ぎ)
和賀美賀本斯(わがみ〈見〉がほし)
久邇波(くに〈国〉は)
迦豆良紀(かづらき〈葛城〉)
多迦美夜(たかみや〈高宮〉)
和藝幣能阿多理(わぎへ〈我家〉のあた〈辺〉り)

この叙事詩の通り、(あおによし)奈良 ⇒ 倭(大和) と足を伸ばし
石之姫命の生まれ故郷、葛城近くまでにも赴く始末。

更に更に、石之姫命は
未だ心的現象乱れ彷徨おさまらず、
又もや逆走、元の山城(山背)国へ引き返す事に。
そして、漸く、山城(山背)国、「筒木(綴喜)」在住、
「韓人」で名を「奴理能美(ぬりのみ)」と云う方の「家」に
身を寄せるのです。 続く。

| | コメント (0)

« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »