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2015年1月25日 (日)

仁徳帝皇后 石之日賣命の嫉妬 502

仁徳帝の奥様石之日賣命(いわのひめのみこと)が織りなす
女性の嫉妬を隠すことなく披瀝する、とても人間臭く描写されていて
好感が持てる古事記原文です。

其大后石之日賣命
甚多嫉妬
故天皇所使之妾者
不得臨宮中
言立者
足母阿賀迦邇嫉妬(自母下五字以音)
爾天皇
聞看吉備海部直之女
名黒日賣
其容姿端正
喚上而使也
然畏其大后之嫉
逃下本國
天皇坐高臺
望瞻其黒日賣之舩出浮海
以歌曰
淤岐幣邇波
袁夫泥都羅羅玖
久漏邪夜能
摩佐豆古和藝毛
玖邇幣玖陀良須
故大后
聞是之御歌
大忿
遣人於大浦
追下而
自歩追去
於是天皇
戀其黒日賣
欺大后
曰欲見淡道嶋而
幸行之時
坐淡道嶋
遙望歌曰
淤志弖流夜
那爾波能佐岐用
伊傳多知弖
和賀久邇美禮婆
阿波志摩
淤能碁呂志摩
阿遲摩佐能
志麻母見由
佐氣都志摩美由
乃自其嶋傳而
幸行吉備國
爾黒日賣令大坐其國之山方地而
獻大御飯
於是爲煮大御羹
採其地之菘菜時
天皇到坐其孃子之採菘處
歌曰
夜麻賀多邇
麻祁流阿袁那母
岐備比登登
等母邇斯都米婆
多怒斯久母阿流迦
天皇上幸之時
黒日賣獻御歌曰、
夜麻登幣邇
爾斯布岐阿宜弖
玖毛婆那禮
曾岐袁理登母
和禮和須禮米夜
又歌曰
夜麻登幣邇
由玖波多賀都麻
許母理豆能
志多用波閉都都
由久波多賀都麻
自此後時
大后
爲將豐樂而
於採御綱柏
幸行木國之間
天皇
婚八田若郎女
於是大后
御綱柏積盈御舩
還幸之時
所駈使於水取司
吉備國兒嶋之仕丁
是退己國
於難波之大渡
遇所後倉人女之舩
乃語云
天皇者
皆婚八田若郎女而
晝夜戲遊
若大后
不聞看此事乎
靜遊幸行
爾其倉人女
聞此語言
即追近御焙舩
白之状具如仕丁之言
於是大后
大恨怒
載其御舩之御綱柏者
悉投棄於海
故號其地
謂御津前也
即不入坐宮而
引避其御舩
泝於堀江
隨河而
上幸山代
此時歌曰
都藝泥布夜
夜麻志呂賀波袁
迦波能煩理
和賀能煩禮婆
迦波能倍邇
淤斐陀弖流
佐斯夫袁
佐斯夫能紀
斯賀斯多邇
淤斐陀弖流
波毘呂
由都麻都婆岐
斯賀波那能
弖理伊麻斯
芝賀波能
比呂理伊麻須波
淤冨岐美呂迦母
即自山代迴
到坐那良山口
歌曰
都藝泥布夜
夜麻志呂賀波袁
美夜能煩理
和賀能煩禮婆
阿袁邇余志
那良袁須疑
袁陀弖
夜麻登袁須疑
和賀美賀本斯
久邇波
迦豆良紀
多迦美夜
和藝幣能阿多理
如此歌而還
暫入二坐筒木韓人
名奴理能美之家也

読み解きは来週に。  続く。

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P79の7行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2015年1月18日 (日)

仁徳帝=聖帝 課税免除政策 501

仁徳帝=「聖帝」 と云われた由縁のお話し。
このお話しは
貧困疲弊した「四方之国(村邑=むらむら)」の「人民(人達)」への
減税ではなく、課税免除を講じる政治・経済的英断。
それも一年ぽっきりではなく、少なくても三年以上の措置。
こんな課税免除政策を講じられたら村邑の人達は欣喜雀躍。
これには消費税アップ先延ばしの某首相もビックリこ。
あのによし奈良の御代に淡海三船(722~785)が
大雀命に贈った名前は 「仁徳(にんとく=じんとく)」。
ここでちょいと広辞苑のお力をお借りします。

仁徳・・・仁愛の徳 情け深い徳
 仁愛・・・恵み慈しむ事 慈しみ 思いやり 情け
 徳 ・・・道を悟った立派な行為
  道 ・・・人が考えたり行なったりする事柄の条理
   条理・・・物事の道理 筋道
    道理・・・物事のそうあるべき筋道 ことわり(理) 道義
     道義・・・人の行うべき正しい道 道徳の筋道
     理 ・・・道理 条理
道徳・・・人の践み行うべき道 規範の総体 個人の内面的な原理

どうも、心模様・思想などを表現する漢語は堂々巡りを来します。
和語では 「情け深く・相手を思いやる気持ちが有る人」 って事。
世の中にそうそういらっしゃらない御仁(ごじん)です。
だから、聖帝と。
再度、広辞苑を紐解くと
 
聖帝・・・徳の高い天子 ひじりのみかど
 天子・・・天皇(テンノウ すめらみこと)
  天皇・・・皇帝・天子の敬称 =皇尊
  すめらみこと・・・天皇の敬称
聖・・・「日知り」の意 日のように天下の物事を知る人
帝・・・みかど 天子

これも巡り巡りって元の鞘に。
淡海三船は漢語の 「仁徳」 を736年唐より来日した僧侶
道璿(どうせん)(702~760) に学んだ筈。
道璿は来日の際、禅・律・華厳宗の注釈書を持参し
752年東大寺大仏開眼供養呪願師をお勤めされた方。
彼は儒学・道教(老荘思想・陰陽五行説)を三船に伝授したのでしょう。
それらを学んだ三船は日本書紀を参考にイメージを膨らませ
諱作りに着手したと考えます。
尚、三船の諱作製・各帝へのネーミング贈呈の件は
鎌倉時代末期に卜部兼方(うらべかねかた)(?~?)が著した
「釈日本紀」 に記載されているとの事。
(神武~元正帝〈640~748 在位715~724〉 弘文・文武帝を除く)

又、「仁」 については 「漢字(感じ)は絵文字の元祖」 で。 続く。

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2015年1月11日 (日)

仁徳帝 課税免除で国造り 500

遅ればせながら、
新年明けましておめでとうございます。
皆様におかれましては良い年を迎えられたましたでしょうか?
今年も何卒、宜しくお願い申し上げます。
 
それでは、昨年からの続きで
新年に相応(ふさわ)しい仁徳帝の有名な美しきお話が展開する
古事記原文です。
                       
於是天皇
登高山
見四方之國
詔之
於國中烟不發
國皆貧窮
故自今至三年
悉除人民之課役
是以大殿破壊
悉雖雨漏
都勿脩理
以楲受其漏雨
遷避于不漏處
後見國中
於國滿烟
故爲人民冨
令科課役
是以百姓之榮
不苦役使
故稱其御世謂聖帝世也

読み解きは来週に。  続く。

web上では
国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P78の16行目で
確認可能ですので是非ご覧下さい。

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