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2014年9月28日 (日)

宇遅能和紀郎子 大山守命を制す 487

 応神帝が一番心を奪われたと思われる眉化粧の名宮主矢河枝姫
 とのお子様、宇遅能和紀郎子。
 彼に次期帝位を生前贈与したお話は 「大山守命 兄 大雀命 弟」
 でご確認下さい。
 大山守命に与えられた役務は山海の管理、
 彼の同母弟、大雀命は国務の管理で実質リーダーの存在。
 大山守命はこの状況に気分が優(すぐ)れなかったのでしょう?
 父、応神帝が他界された後、
 即、宇遅能和紀郎子に反旗を翻し殺害を企てます。
 大雀命に何故か大山守命の企て情報がもたらされます。
 大雀命は直ちにこの情報を宇遅能和紀郎子に伝言。
 宇遅能和紀郎子は驚き、彼の地元、宇治川の「邊(辺)〈ほとり〉」に
 待ち伏せの兵を隠し準備。
 そして近くの山上に
 「張絶垣立惟幕」
 陣幕を張り巡らし
 「舎人爲王露坐呉床百官恭敬往來」
 舎人(とねり)を傀儡=影王とし
 宇遅能和紀郎子の「呉床(椅子)」に座らせ
 舎人の回りを恭しく取り巻き文武百官を行き来させ
 「如王子之坐所」
 まさに、宇遅能和紀郎子が山上に陣を張っている様子であった。
 更に大山守命が宇治川を渡る時の「舩檝(=梶)=櫓」を「餝=飾」り
 整え、舟の中の簀の子(踏み板)にツルッと滑る液体
 (「葛之根」汁)を塗った。
 宇遅能和紀郎子の出で立ちは「爲賤人(いやしびと)之形」。
 賤人は身分の低いお方でここでは船頭さん。
 上は麻布製のジャケット、下は「褌(すましもの=ふんどし)」姿で
 細工を施した舟の櫓を取って待機する宇遅能和紀郎子。
 一方、大山守命も兵を伏し隠し、上着の中に鎧を「服(着)」けて
 宇治川の辺に一人で到着。
 (お供を従えない大山守命とはさすがファンタジーストーリー。)
 そして、大山守命は単身舟に乗り込みます。
 陣幕を張り巡らした山を望みそこに宇遅能和紀郎子が座っている
 と思いこみ、まさに舟の梶取りをしているとはつゆ知らず、
 大山守命は梶取りに問い質(ただ)します
 「目の前の山には怒れる『大猪』がいると聞く。私はその大猪を
  捕まえることができるであろうか?」 と。
 梶取りに変装した宇遅能和紀郎子はいとも簡単に
 「できますまい。」 と答えます。
 「何故、不可能なのか?」 と大山守命が詰め寄ると
 「『時時也往往也』幾度も捕らえようされましたが
  駄目だったじゃないですか。」
 「それ故、できますまい。」 とお答えしたのです。
 大山守命がこの返事を不信に思わなかったのかしら
 疑問を抱く方がいけないのでしょう。
 やがて、舟は宇治川の真ん中に到着。
 これを期に宇遅能和紀郎子は舟を大きく傾けます。
 すると不意をつかれた大山守命は思わず足を滑らせ川の中にザブーン。
 浮き上がった大山守命は川の流れに身を任せます。
 彼には余裕があったのか?流されながらここで一歌。

知波夜夫流(ちはやぶる)
宇遲能和多理邇(うじ〈宇治〉のわたり〈渡〉に)
佐袁斗理邇(さを〈棹〉と〈取〉りに)
波夜祁牟比登斯(はや〈速〉けむひと〈人〉し)
和賀毛古邇許牟(わがもこみこ〈来〉む)

 やっぱ、余裕がなかったのか 「助けてくれ」 って感じ。
 ここに至り、
 宇遅能和紀郎子が川の辺に隠し伏せていた兵(つわもの)共が
 大山守命目がけて一斉に射かける顛末。
 大山守命は沢山の矢に当たり、
 ついに 「訶和羅之前(かわらのさき)」 で落命、川底に沈む事に。
                                                                 続く。

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2014年9月21日 (日)

応神帝崩御 跡目争い勃発 486

 応神帝が崩御されます。
 大雀命は応神帝の命(令)に従い、宇遅能和紀郎子に帝位移譲。
 しかしながら、大雀命の兄、大山守命は反旗を翻す事に。
 そこのところの古事記原文です。
 
故天皇崩之後
大雀命者
從天皇之命
以天下讓宇遲能和紀郎子
於是大山守命者
違天皇之命
猶欲獲天下
有殺其弟皇子之情
竊設兵將攻
爾大雀命
聞其兄備兵
即遣使者
令告宇遲能和紀郎子
故聞驚
以兵伏河邊
亦其山之上
張絶垣立惟幕
詐以舎人爲王露坐呉床百官恭敬往來之状
既如王子之坐所而
更爲其兄王渡河之時
具餝舩檝者春佐那(此二字以音)
葛之根
取其汁滑而
塗其舩中之簀椅
設蹈應仆而
其王子者
服布衣褌
既爲賤人之形
執檝立舩
於是其兄王
隱伏兵士
衣中服鎧到於河邊
將乗舩時
望其嚴餝之處以
以爲弟王坐其呉床
都不知執檝而立舩
即問其執檝者曰
傳聞茲山有忿怒之大猪
吾欲取其猪
若獲其猪乎
爾執檝者
答曰不能也
亦問曰何由
答曰時時也往往也雖爲取而不得
是以白不能也
渡到河中之時
令傾其舩
隨入水中
爾乃浮出
隨水流下
即流歌曰
知波夜夫流
宇遲能和多理邇
佐袁斗理邇
波夜祁牟比登斯
和賀毛古邇許牟
於是伏隱河邊之兵
彼廂此廂一時共興
矢刺而流
故到訶和羅之前而沈入(訶和羅三字以音)
故以鈎探其沈處者
繁其衣中甲而
訶和羅鳴
故號其地謂訶和羅前也
爾掛出其骨之時
弟王歌曰
知波夜比登
宇遲能和多理邇
和多理是邇
多弖流
阿豆佐由美
麻由美
伊岐良牟登
許許呂波母閉杼
伊斗良牟登
許許呂波母閉杼
母登幣波
岐美袁淤母比傳
須惠幣波
伊毛袁淤母比傳
伊良那祁久
曾許爾淤母比傳
加那志祁久
許許爾淤母比傳
伊岐良受曾久流
阿豆佐由美
麻由美
故其大山守命之骨者
葬于那良山也
是大山守命者(土形君 幣岐君 榛原君等之祖)

 読み解きは来週に。                                    
                                     続く。
 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P68の1行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2014年9月14日 (日)

秦造之祖・漢直之祖の出自 485

 今週も渡来された方々の出自探索です。
 秦造之祖・漢直之祖の 「造」 「直」 は乙巳の変(大化の改新)
 以前の 「姓(かばね)」 でヒエラルキーを示す称号。
 造(みやっこ)は地域豪族の頭目=伴造(とものみやっこ)
 直(あたい)は地区豪族のヘッドで国造(くにのみやっこ)
 (面積は域>区。) とされていますが子細は不明。
 古代歴史研究者に依ると

 秦(はた)さんは
 「『日本書紀』 によれば、応神帝の時に120県の百姓(ひゃくせい)
   を率いて来日した弓月君(ゆづきのきみ)を祖とし、
   本拠地は山背(やましろ)国葛野(かどの)郡。
   諸国にある多数の秦部・秦人部などの部民(べみん)を統率、
   在地に大きな富を築いた。
   秦河勝が推古朝に建立したと伝えられる広隆寺は氏寺。」
 (日本史辞典 角川書店 P853)
 * 県は古代中国行政区で戦国時代以降 郡>県
 * 百姓は人々の意で現在のお百姓と異なります
 * 弓月君は融通王(新撰姓氏録)とも、秦氏の祖先とされる伝承上の方
  * 新撰姓氏録は815年嵯峨帝の勅の氏族系譜
 * 部民は差別っぽいから皆さんでお調べを

 漢(あや)さんは
 「後漢霊帝らの子孫と称する古い時期の渡来系氏族。実際は朝鮮
   半島から渡来したらしい。
   東漢(やまとのあや)氏(倭漢)と
   西漢(かわちのあや)氏(河内漢)に分かれる。
   後に渡来した氏族を今来漢人(いまきのあやひと)という。」
 (日本史辞典 角川書店 P40)
 * 後漢雷帝(156~189  在位168~189)
  東漢
  「記紀では応神帝の時に渡来したと伝える阿知使主(あちのおみ)
    を祖とする渡来系氏族で漢氏の一派。奈良盆地南部を本拠に、
    多くの渡来系技術者や部民の漢部を管轄した。
    奈良時代に子孫の坂上氏が活躍した。」
  (日本史辞典 角川書店 P1059)
  * 坂上氏でメジャーな方は
    坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(758~811)
  西漢
  「東漢とは別に河内に居住。文(ふみ)氏・蔵首(くらのおびと)氏
    ・津史(ふひと)氏などの分かれた。
    津史氏は後に菅野朝臣(すがののあそみ)に改姓され、
    菅野真道(まみち)(741~841)が出た。」
  (日本史辞典 角川書店 P236)

 古事記表記の 「阿知吉師」 と阿知使主とを同一とする説がある
 との事ですが、古事記上は阿知吉師と漢直之祖は別々に
 記載されていますので同一人物とするのは無理筋に思えます。
 何れにせよ、かの時代、どの様な経路・経緯で来倭されたのか
 全く不明なのです。
 何れの御時に秦造之祖・漢直之祖に触れてみたいと考えています。
                         続く。

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2014年9月 7日 (日)

呉服(くれはとり)西素さんって 484

 四方の海に守られ・育まれていた倭国(現在の日本国)に
 渡来された方々。
 この倭国の状況は非常に特殊で有り難い事。
 朝鮮半島・中国はユーラシア大陸の東に存在、
 (イギリス、グリニッジ天文台を基点として)
 このユーラシア大陸、基本的には陸続きで徒歩(かち)にて移動可能。
 従って、以前紹介した、「(北)魏書」 列伝 百済 に記載されている
 「臣(百済)と高句麗とは、源は夫余(ふよ)に出で」 にて
 百済・高句麗は出自はこれも以前紹介した
 「烏丸鮮卑東夷傳(伝)」 にある中国東北地方北部に活動した民族
 、夫余族に。
 因みに、この夫余族にしてもご先祖様はかの地に移住する前には
 かの地より北・南・西方面にお住いになっていたのでしょう。
 しかしながら、これを追及すると際限がなくなりますので中止。
 然(しか)るに、倭国に渡来された
 土木・鍛冶・機織り・醸造技師さんらも来日(倭)された
 時点でのお住まいがたまたま新羅・百済地区だっただけ。
 わたくしども ZIPANGU に関連する服地をお伝え下さった
 機織り技師職人、西素さん。
 呉服の読みは、呉(くれ)服(はたおり ⇒ はとり)。
 くれはとり ⇒ ゴフク(呉服)に。
 西素さんのご先祖様が 「呉」 の国で生活されていたか、或は、
 「呉」 の国から韓半島に移住してきた機織り技師職人さんに
 弟子入りし絹織物作りを習得された方が西素さん。
 又、呉にしても春秋時代なのか三国時代なのか???
 但し、地域は長江(揚子江)流域になる筈・・・・・。
 はたまた、西素さん自身、女性だったのか男性だったのか
 古事記表記では、知る由もございません。
 西素さんの織物がどの様な感じだったのか、興味津々ですが
 蚕が生み出す絹織物も、やがて自然に還ってしまうこと必定。
 故に見ることが叶わないのがちょぴり儚く寂しい思い。   続く。

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