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2014年6月29日 (日)

応神帝の御世に突入 476

 時が経過し、品陀和気命は応神帝時代に突入。
 そこの古事記原文です。

於是天皇
問大山守命與大雀命詔
汝等者
孰愛兄子與弟子
(天皇所以發是問者 宇遲能和紀郎子 有令治天下之心也)
爾大山守命
白愛兄子
次大雀命
知下天皇所問賜之大御情而白
兄子者
既成人
是無悒
弟子者
未成人是愛
爾天皇詔
佐邪岐阿藝之言(自佐至藝五字以音)
如我所思
即詔別者
大山守命
爲山海之政
大雀命
執食國之政以白賜
宇遲能和紀郎子
所知天津日繼也
故大雀命者
勿違天皇之命也
一時天皇越幸近淡海國之時
御立宇遲野上
望葛野
歌曰
知婆能
加豆怒袁美禮婆
毛毛知陀流
夜邇波母美由
久爾能冨母美由
故引坐木幡村之時
麗美孃子遭其道衢
爾天皇問其孃子曰
汝者誰子
答白
丸邇之比布禮能意冨美之女名宮主矢河枝比賣
天皇即詔其孃子
吾明日還幸之時
入坐汝家
故矢河枝比賣
委曲語其父
於是父答曰
是者天皇坐那理(此二字以音)
恐之
我子仕奉云而
嚴餝其家
候待者
明日入坐
故獻大御饗之時
其女矢河枝比賣命
令取大御酒盞而獻
於是天皇
任令取其大御酒盞而御歌曰
許能迦邇夜
伊豆久能迦邇
毛毛豆多布
都奴賀能迦邇
余許佐良布
伊豆久邇伊多流
伊知遲志麻
美志麻邇斗岐
美本杼理能
迦豆伎伊岐豆岐
志那陀由布
佐佐那美遲袁
須久須久登
和賀伊麻勢婆夜
許波多能美知邇
阿波志斯袁登賣
宇斯呂傳波
袁陀弖呂迦母
波那美波志
比斯那須
伊知比韋能
和邇佐能邇袁
波都邇波
波陀阿可良氣美
志波邇波
邇具漏岐由惠
美都具理能
曾能那迦都邇袁
加夫都久
麻肥邇波阿弖受
麻用賀岐許邇
加岐多禮
阿波志斯袁美那
迦母賀登
和賀美斯古良
迦久母賀登
阿賀美斯古邇
宇多氣陀邇
牟迦比袁流迦母
伊蘓比袁流迦母
如此御合
生御子
宇遲能和紀(自宇下五字以音)郎子也

 読み解きは来週に。                                                 続く。
 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P62の2行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2014年6月22日 (日)

応神帝は10名の奥様を 475

 品陀和気命(ほむだ〈た〉わけ)〈応神帝〉の係累描写の
 古事記原文です。

品陀和氣命〈応神帝〉
坐輕嶋之明宮
治天下也
此天皇
娶品陀眞若王(品陀二字以音)之女
三柱女王
一名
高木之入日賣命
中日賣命
弟日賣命
(此女王等之父 品陀眞若王者五百木之入日子命 娶尾張連之祖
建伊那陀宿祢之女  志理都紀斗賣 生子者也)
故高木入日賣命之御子
額田大中日子命
大山守命
伊奢之眞若命(伊奢二字以音)
次妹大原郎女
次高目郎女(五柱)
中日賣命之御子
木之荒田即女
大雀命〈仁徳帝〉
次根鳥命(三柱)
弟日賣命之御子
阿倍郎女
次阿貝知能(此四字以音)三腹郎女
次木之菟野郎女
次三野郎女(五柱)←ママ(4人なのに5人?)
又娶丸邇之比布禮能意冨美之女(自比至美以音)
宮主矢河枝比賣
生御子
宇遲能和紀郎子
次妹八田若郎女
女鳥王(三柱)
又娶其矢河枝比賣之弟袁那辨郎女
生御子
宇遲之若郎女(一柱)
又娶咋俣長日子王之女息長眞若中比賣
生御子
若沼毛二俣王(一柱)
又娶櫻井田部連之祖嶋垂根之女糸井比賣
生御子
速總別命(一柱)
又娶日向泉長比賣
生御子
大羽江王
次小羽江王
次幡日之若郎女(三柱)
又娶迦具漏比賣
生御子
川原田郎女
次玉郎女
又忍坂大中比賣
次登冨志郎女
次迦多遲王(五柱)
次娶葛城之野伊呂賣(此三字以音)
生御子伊奢能麻和迦王(一柱)
此天皇之御子等
并廿六王(男王十一 女王十五)
此中大雀命者
治天下也

 品陀和気命〈応神帝〉の奥様10名お子様は古事記上は26名ですが
 ダブり?が在りますので25名に。                         続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P60の7行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

 ところで、現在 「山種美術館」
 「クールな男とおしゃれな女 ―絵の中のよそおい―」 開催中。
 鈴木春信~喜多川歌麿~上村松園~伊藤深水~北田克己、
 彼ら・彼女らが描いた 「おしゃれな女」 を御覧頂けます。
 お時間が許せば是非とも!!

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2014年6月15日 (日)

少名御神醸造お酒は楽酒 474

 都奴賀=角鹿(福井県敦賀)のお話から一転、
 母である息長帯姫命(神功皇后)が登場。
 この息長(おきなが)について。
 現在は滋賀県米原市に当たり、昔は近江国坂田郡息長村と云う
 地名が存在しました。
 彼女はかの地の出自だったと考えられます。
 彼女は禊ぎが終わり倭国に凱旋する我が子と建內宿祢命らに
 「待酒(無事帰還お祝い酒)」 を用意し振る舞います。
 祝杯を傾ける太子らを御覧になり彼女は喜びの歌を。
 (太子〈後の応神帝〉はお酒を召し上がれるお年頃だったの?)
 
許能美岐波(このみき〈御酒〉は)                  
和賀美岐那良受(わが御酒ならず)
久志能加美(く〈奇〉しのかみ)
登許余邇伊麻須(とこよ〈常世〉にいます)
伊波多多須(いは〈石=岩〉た〈立〉たす)
須久那美迦微能(すくなみかみ〈少名御神=少名彦那神〉の)
加牟菩岐(かむほ〈神寿〉き)
本岐玖琉本斯(ほ〈寿〉きくるほし)
登余本岐(とよほ〈豊寿〉き)
本岐母登本斯(寿きもとほし)
麻都理許斯美岐叙(ま〈舞〉つりこし御酒ぞ)
阿佐受袁勢 佐佐(あさずをせ ささ)

 どうもこのお祝い酒は不思議な神(奇しのかみ)、
 少名御神=少名彦那神が常世国で長時間かけて醸し出した
 それはそれはお目出度く、美味しいお酒とか。
 この神はほんと不可思議なお方。
 前回登場は昔々の大国主命がご活躍された際。
 そんな神々しいお酒だから
 「さあ、杯を干さずにたくさん召し上がれ。」
 この歌に対し、太子ではなく建內宿祢命がお答えします。

許能美岐袁(この御酒を)
迦美祁牟比登波(か〈醸〉みけむ人は)
曾能都豆美(そのつづみ〈鼓〉)
宇須邇多弖弖(うす〈臼〉にたてて)
宇多比都都(うた〈歌〉ひつつ)
迦美祁禮迦母(醸みけれかも)
麻比都都(ま〈舞〉ひつつ)
迦美祁禮加母(醸みけれかも)
許能美岐能(この御酒の)
美岐能(御酒の)
阿夜邇宇多陀怒斯 佐佐(あやにうただのし ささ)

 お酒を頂くことはとっても楽しい事。
 「さあさあもっと召し上がれ。」
 これらは酒席で歌われる詩 「此者酒楽之歌也」 とか。
 お酒は百薬の長、でも、ついついの飲み過ぎにご注意。  続く。

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2014年6月 8日 (日)

御食津⇒気比 血浦⇒都奴賀・角鹿 473

 忍熊王軍団を粉砕した応神帝軍団。
 息長帯姫命(神功皇后)の参謀、建內宿祢(禰)命は
 この戦いの勝利を確信していたらしく?
 若狭国の越(高志〈こし〉)国手前の角鹿(つぬが)に仮宮を造作
 していたのです。(角鹿は現在の福井県敦賀市とされています。)
 建內宿祢(禰)命は戦勝後、太子(後の応神帝)を伴い彼の地で
 「禊(みそぎ)」 をしようと考えていたのです。
 (だまし討ち戦勝に対する負い目?)
 ここからの展開はやや、おとぎ話風のきらいがありますが、
 角鹿到着後に建內宿祢(禰)命は夢のお告げを賜ります。
 この地の神、伊奢沙和気(いざさわけ)大神之命が夢に現れ
 太子(後の応神帝)の名前を私の名前と取り替える事と明朝、
 太子に贈り物をするから角鹿浜へ散歩させる事とのお告げ。
 建內宿祢(禰)命は夢のお告げ通り、太子を角鹿浜へ。
 すると驚くことに、浜(「浦」)には数多くの
 「毀鼻入鹿魚」(鼻を失った「入鹿〈いるか〉魚」=海豚)が。
 太子は喜び、伊奢沙和気(いざさわけ)大神之命にお礼。
 ところでこの海豚(dolphin)はその昔、食糧とされていたのでしょう。
 否、現在でも食用とされているのです。
 この食用文化が2010年日本でも上映された映画で話題に。
 「和歌山県太地町」 の海豚漁を取り上げた映画、「ザ・コーヴ」。
 子細は 「イルカ漁等に対する和歌山県の見解」 で。
 そして、海豚をプレゼントされた大神之命は
 「御食津大神(みけつのおおかみ)」 と称され、
 古事記編纂時代では 「気比大神(けひのおおかみ)」 と。
 気比大神につきましては
 「氣比神宮」 の 「氣比神宮について」 でご確認を。
 御食(け)津大神は後に気(け)比大神に呼称変更された由縁は
 氣比神宮では語られていません。
 御食(け)津大神は 「津」 から海の幸を授ける神様らしい
 ネーミングですがなぜ気(け)比大神になったのか?
 確かに 「食」 すると(元)「気」 なること必定。
 しかし、そんな単純に命名変更されたとは思われませんが・・・・・。
 又、鼻をカットされ海豚は 「鼻血ブー」 ですから浜辺は血の海。
 そこから彼の地は 「血浦(ちうら)」 と云われ
 古事記撰上時代では 「都奴賀(つぬが)」 と。
 この変遷は親父ギャグでも無理筋では?
 しかしてこの都奴賀=角鹿は現在、福井県敦賀(つるが)市に。
                                             つづく。

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2014年6月 1日 (日)

忍熊王 淡海の藻くずに 472

 錯綜した係累の持ち主、香坂王と忍熊王。
 彼らは息長帯姫命(神功皇后)の殺害を目論みます。
 そして、悠長にも? 「斗賀野」 でこの戦の吉凶占いを試みます。
 (斗賀野〈とがの〉の所在地は不明)
 その結果は香坂王が猪に食べられる顛末で、彼らにとって凶。
 にも関わらず残された忍熊王は畏れず果敢に戦いに挑む展開へ。
 これでは全く以て、吉凶占いの意味合いはないのでは?
 忍熊王軍団の将軍は難波吉師部之祖 伊佐比宿祢。
 応神帝軍団の将軍は丸邇臣之祖 難波根子建振熊命。
 両軍の将軍は 「難波(なにわ)」 とされているので
 難波地区を根拠地にする豪族であったのか?
 であるなら、戦闘地区は自ずと難波に。
 応神帝軍団の偽装葬儀仕立て船に兵がいないとふんだいた
 忍熊王軍団は油断していたところ、いきなり船内に潜んでいた兵が
 難波門(港)〈なにわと〉にやすやす上陸。
 忍熊王軍団は応神帝(「太子」)軍団の計略にまんまと嵌(はま)る事に。
 これを期に両軍は戦闘状態に突入。
 忍熊王軍団は兵の出現に堪(たま)らず退却。
 戦線を立て直す為一端 「山代」 の地迄退き再度応神帝軍団に攻撃。
 (この山代〈やましろ〉は山背・山城国で現在の京都府南部。)
 やがて、戦闘は一進一退を繰り返す激戦硬直状態に。
 これを打開する為、
 応神帝軍団将軍、難波根子建振熊命は姑息にも?一計を。
 なんと息長帯姫命(神功皇后)が戦死された事にしてしまったのです。
 応神帝軍団のヘッド(大将=最高指揮官)は当然、神功皇后。
 大将を無くした軍団は戦意喪失、武器を置くことになります。
 「絶弓絃」(弓の弦を斬り)、忍熊王軍団に 「帰服」 する素振りを。
 その状況を見た忍熊王軍団の伊佐比宿祢将軍は
 相手を思いやり、 戦闘と中止。
 忍熊王のおられる地区に引き返すのです。
 退却に出た忍熊王軍団を確認すると難波根子建振熊命将軍は
 即、兵に頭に隠しておいた弦を再装備させ、
 背中を向けた無防備な忍熊王軍団に射かけたのです。
 再度、騙されたと察した伊佐比宿祢将軍らは忍熊王を守りながら
 「逢坂〈おうさか〉(滋賀県大津市南部)」 に逃走。
 お人好しにも2度騙された忍熊王軍団は敗北の道を辿り、
 「沙沙那美〈ささなみ〉=細波・楽浪」 の地でお手上げ。
 (この地は淡海=琵琶湖の西岸とされています。)
 忍熊王と伊佐比宿祢は敵の手に落ちるよりも自害を選択。
 「乗舩浮海(淡海=琵琶湖へ船で漕ぎ出し)」 辞世の歌。

 伊奢阿藝(いざあざ)
 布流玖麻賀(振熊が)
 伊多弖淤波受波(いたでお〈痛手負〉はずは)
 邇本杼理能(にほ鳥の)
 阿布美能宇美邇(あふみ〈淡海〉の海に)
 迦豆岐勢那和(かづ〈潜〉きせなわ)

 切なく悲しくも潔く?淡海の藻くずに。           続く。

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