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2014年5月25日 (日)

香坂王 忍熊王の出生秘密 471

 息長帯姫命(おきながたらしひめ)=神功(じんぐう)皇后一行らは
 九州を後にして、倭国に帰還します。
 当然、仲哀帝の崩御、後の応神帝の誕生情報は倭国に住まう方々は
 周知の事実であった筈?
 息長帯姫命は帰還の際、反乱分子出現を予想し謀を画策。
 その謀は仲哀帝との間にもうけたお子さんが亡くなった事にし
 葬儀仕立ての船を用意(実際は兵を満載)した事。
 もし、この通りに考えると仲哀帝=息長帯姫命、
 側近の建內宿祢(禰)命らは統治力が欠如していた事になります。
 反乱分子として登場する方は 「香坂王」 と 「忍熊王」。
 このお二人は以前出現しています。
 「倭建命の息子が仲哀帝に」 でご確認下さい。
 ここの記載に依ると香坂王と忍熊王について。
 倭建命=弟橘姫命のご子息が若建王。
 若建王と柴野姫とのお嬢さんが迦具漏姫命。
 迦具漏姫命と倭建命の父、大帯日子天皇(景行帝)とのお子さんが大江王。
 大江王と庶妹銀王のお嬢さんが大中姫命。
 そして、この大中姫命は香坂王と忍熊王の祖(親)と。
 次に 「仲哀帝と神宮皇后登場」 をご覧下さい。
 この記述に依ると香坂王と忍熊王は
 大江王のお嬢さん、大中津姫命(=大中姫命)と
 帯中日子天皇(仲哀帝)との間に生まれたとなっています。
 ここに登場する方々を世代別に整理すると
 第一世代 景行帝
 第二世代 倭建命  (大江王)
 第三世代 仲哀帝 若建王 (大中津姫命=大中姫命)
 第四世代 応神帝 迦具漏姫命 香坂王 忍熊王
 このような感じに。
 と云うことは
 第一世代の景行帝は
 第四世代の迦具漏姫命と愛を育み大江王。
 第二世代の大江王と
 第三世代の大中津姫命=大中姫命とのお子さんが
 第四世代の香坂王・忍熊王に。
 景行帝の体力が凄かったって事ですが
 少なくても景行帝の玄孫世代のお嬢さんを娶った事に。
 まあ、神代?の神々のお振る舞いですから・・・・・。  続く。

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2014年5月18日 (日)

気比大神 入鹿(海豚) 都奴賀 470

 息長帯姫命(神宮皇后)・建內宿祢(禰)一行らが筑紫国を後にし
 倭国へ帰還する際の古事記原文です。

於是息長帶日賣命
於倭還上之時
因疑人心
一具喪舩
御子載其喪舩
先令言漏之御子既崩
如此上幸之時
香坂王忍熊王聞而
思將待取
進出於斗賀野
爲宇氣比獦也
爾香坂王
騰坐歷木而是
大怒猪出
堀其歷木
即咋食其香坂王
其弟忍熊王
不畏其態
興軍待向之時
赴喪舩將攻空舩
爾自其喪舩
下軍相戰
此時忍熊王
以難波吉師部之祖
伊佐比宿祢 
爲將軍
太子御方者
以丸邇臣之祖
難波根子建振熊命
爲將軍
故追退到山代之時
還立
各不退
相戰
爾建振熊命權而
令云息長帶日賣命者
既崩故
無可更戰
卽絶弓絃
欺陽歸服
於是其將軍既信詐
弭弓藏兵
爾自頂髮中
採出設弦(一名云宇佐由豆留)
更張
追擊
故逃退逢坂
對立亦戰
爾追迫敗
於沙沙那美悉斬其軍
於是其忍熊王
與伊佐比宿祢
共被追迫
乘舩浮海歌曰
伊奢阿藝
布流玖麻賀
伊多弖淤波受波
邇本杼理能
阿布美能宇美邇
迦豆岐勢那和
即入海
共死也
故建內宿祢命
率其太子
爲將禊而
經歷淡海及若狹國之時
於高志前之角鹿造假宮而坐
爾坐其地
伊奢沙和氣大神之命
見於夜夢云
以吾名
欲易御子之御名
爾言禱白之恐
隨命易奉
亦其神詔
明日之旦
應幸於濱
獻易名之幣
故其旦
幸行于濱之時
毀鼻入鹿魚
既依一浦
於是御子
令白于神云
於我給御食之魚
故亦稱其御名號
御食津大神
故於今謂氣比大神也
亦其入鹿魚之鼻血臰
故號其浦謂血浦
今謂都奴賀也
於是還上坐時
其御祖息長帶日賣命
釀待酒以獻
爾其御祖御歌曰
許能美岐波
和賀美岐那良受
久志能加美
登許余邇伊麻須
伊波多多須
須久那美迦微能
加牟菩岐
本岐玖琉本斯
登余本岐
本岐母登本斯
麻都理許斯美岐叙
阿佐受袁勢佐佐
如此歌而
獻大御酒
爾建內宿祢命
爲御子答歌曰
許能美岐袁
迦美祁牟比登波
曾能都豆美
宇須邇多弖弖
宇多比都都
迦美祁禮迦母
麻比都都
迦美祁禮加母
許能美岐能
美岐能
阿夜邇宇多陀怒斯佐佐
此者酒樂之歌也
凡帶中津日子天皇之御年
伍拾貳歲
御陵在河內惠賀之長江也

 読み解きは来週に。                                                                                                                                                          続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P57の7行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2014年5月11日 (日)

紅の裳の裾濡れて鮎か釣る 469

 身籠もっておられたにも関わらず息長帯姫命(神宮皇后)は
 南韓半島の方々とよしみ(好)を結ぶ為に渡海。
 しかしながら、月が満ちお腹の男の子(後の応神帝)は生まれそうな
 臨月に達します。
 息長帯姫命(神宮皇后)はどうしても自国で出産したく
 応神帝に 「もう少し待ってね!」 てな感じで
 石(意志?)を以てして腰に巻き付け 「纒御裳之腰」 おまじない。
 息長帯姫命(神宮皇后)の意志が勝り?
 筑紫国に到着後に無事出産。
 そして彼の地は 「宇美(うみ=産み)」 と呼ばれる事に。
 現在、福岡県糟屋郡宇美町として名残が。
 更に古事記はごり押しします。
 神宮皇后のお腰に纏った 「石」 は 「伊斗(意図?)」 村に在ると。
 伊斗(いと)が意図するものは糸をかし?
 現在では福岡県糸島郡、「鎮懐石八幡宮」 に鎮座。
 更に、産後の肥立ちが良かったのか神宮皇后は
 「筑紫末羅縣之玉嶋里」 へ赴き、その地で食事、川釣りへと展開。
 筑紫国末羅縣(松浦県〈まつらあがた〉)玉嶋里
 現在の佐賀県唐津市玉島近辺。
 ここに流れる玉島川で 「年魚(=鮎)」 釣りを勤しむ神宮皇后。
 釣り糸は 「御裳」 から引き抜き、餌は食事残飯の 「飯粒」。
 この古事記表記からこの時代も年魚(=鮎)体長20~30㎝とすると
 神宮皇后御裳の素材は苧麻(からむし)の極太糸に。(帆布糸感じ)。
 又、かの時代には、餌に飯粒から 「お米」 が食されていた事実が。
 そして、このイベントは
 (女性がご自分の裳の糸を使用、
  釣り餌はご飯粒にての年魚=鮎) 釣り大会)
 古事記撰録時代まで続いていたとか。
 もし、この裳の色が紅であったなら赤い糸で結ばれることになる鮎。
 鮎は魚偏に占い。
 熱き血潮の持ち主が 「恋占い」 に興じておられたのやも。
 そこが 「やも」 でもないのですよっ。
 万葉歌人、大伴旅人(665~731)が奏でているのです。

 「松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると          (松浦川=玉島川)
  立たせる妹が 裳の裾濡れぬ」
 「遠つ人 松浦の川に 若鮎釣る
  妹が手本を 我こそまかめ」
 
 「若鮎釣る 松浦の川の 川波の
  並にし思はば 我恋ひめやも」
 「松浦川 七瀬の淀は 淀むとも
  我は淀まず 君をし待たむ」

 「松浦川 川の瀬早み 紅の
  裳の裾濡れて 鮎か釣るらむ」

 私ども ZIPANGU は 「あっち向いてフォン(suma-pho)時代」
 でも決して 「阿諛(あゆ)迎合」 は致しません事。                続く。

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2014年5月 4日 (日)

神功皇后 新羅・百済と好を結ぶ 468

 古事記の展開では
 神功皇后・建內宿祢〈禰)一行は新羅・百濟(済)に進行し
 両国を平定。
 金銀お宝を求め、はるばる海を渡ったにも関わらず
 その金銀お宝には触れず仕舞い。
 なにやら新羅のリーダー(「國王」)はいとも簡単に神功皇后一行に
 平服、今後は毎年 「お土産(おみやげ)」 をお届けしますとの事。
 又、新羅のお隣、百済には 「定渡屯家」 と記されていますので
 百済のリーダー(「國王」)から幾分かの領地を頂戴した感じ。
 更に百済からの帰途、新羅に立ち寄り、
 おせっかいに思われますが新羅城門前に
 「墨江大神之荒御魂」(海神三神)ご加護のお裾分けと思われる
 分霊を祀り、奉納したとか。
 従って、
 金銀お宝は新羅・百済の方々との親好を深める事?だった。
 現在のような 「国民国家」 概念がない時代に於いては
 明確な領土・領海の境界観念が有るわけが無く
 その土地のリーダーの影響力が及ぶ範囲が 「國=国」 とされた
 のですから、案外、「親好を深める=よしみ(好)を結ぶ」 と考える
 事は当たっているのかも知れません。
 所詮、互いは経済行為 (市場取引) あっての利益(利得)追求。
 よしみ(好)を結ばない限り、円滑な市場取引は不可能です。
 昨今ではこれを 「経済的互恵関係」 と命名されています。
 互いの特産品を 「市場」 で交換し合い、利得を互いに甘受する事。
 これが市場経済の原点。
 飛行機なき時代、特産品輸送は水運・海運に限り、
 集積地(市場)は自ずと川近接地(水運)・港(海運)近郊となる筈。
 やがて、目利き・面倒見が良く、武力を兼ね備えた人物が
 リーダーとなりそのエリアを差配するようになるのでは。
 そのリーダーの呼称が
 頭・王・単于(ぜんう)・皇帝・天皇等々、カタカナでは
 アウグストゥス・ファラオ・キング・マハラジャ・スルタン・ハーン等々、
 各エリアにより異なるだけ。
 そんなこんなで、南韓半島の新羅・百済エリアのリーダーと
 よしみ(好)を結んだ神功皇后一行は彼らに別れを告げ、
 再度、住吉三神のお力添えを願い、その時代の海の玄関、筑紫へ
 帰還する事に相成るのです。                                 続く。

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