新羅 377年 前秦に朝貢 467
前燕(337~370)は364年に洛陽まで落とし破竹の進撃するも
内部分裂が生じる顛末。
一方、中国西部、陝西・甘粛を地元とする
氐族のリーダー苻健(317~355)が前秦(351~394)を起こした。
その前秦の三代目リーダー苻堅(338~385)の時代、
370年に、前燕は前秦に滅ぼされます。
更に、前秦は376年に華北を統一するに至ります。
その翌年、377年、
「太平御覧 秦書」(977~983年頃成立)に依ると
高句麗と新羅が前秦に朝貢したとの事です。
ここに初めて固有名詞、「新羅」 が出現するのです。
又、380年に苻堅の一族であった
苻洛(征北将軍・幽州刺史〈ゆうしゅうしし〉=中国東北方面司令官)
(?~385)が苻堅に叛旗を翻した際、
鮮卑・烏桓(丸)・高句麗・百済・新羅・休忍?から
兵を集めようとしますが各集団はお断りしたと云う記述が。
従いまして、新羅は377年以前に集団形成された事になります。
先週の百済出現の際、345年に新羅表記は登場していません。
論理的には345年~377年の間に新羅が成立したと考えられます。
更に、382年にも新羅は前秦に朝貢したとか。
これらの結果、
高(句)麗はBC37年
百済は313年~345年間
新羅は345年~377年間
この順で3集団は固有名詞として歴史上に登場したことになります。
今回の珍島沖の客船沈没事故に心からお悔やみを申し上げますが、
この珍島、かの時代においては百済に属するエリアになります。
そんなこんだで、そろそろ神功皇后・建內宿祢〈禰)さん達に
お叱りを受けそうなので古事記に戻る事にします。 続く。