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2014年4月27日 (日)

新羅 377年 前秦に朝貢 467

 前燕(337~370)は364年に洛陽まで落とし破竹の進撃するも
 内部分裂が生じる顛末。
 一方、中国西部、陝西・甘粛を地元とする
 氐族のリーダー苻健(317~355)が前秦(351~394)を起こした。
 その前秦の三代目リーダー苻堅(338~385)の時代、
 370年に、前燕は前秦に滅ぼされます。
 更に、前秦は376年に華北を統一するに至ります。
 その翌年、377年、
 「太平御覧 秦書」(977~983年頃成立)に依ると
 高句麗と新羅が前秦に朝貢したとの事です。
 ここに初めて固有名詞、「新羅」 が出現するのです。
 又、380年に苻堅の一族であった
 苻洛(征北将軍・幽州刺史〈ゆうしゅうしし〉=中国東北方面司令官)
 (?~385)が苻堅に叛旗を翻した際、
 鮮卑・烏桓(丸)・高句麗・百済・新羅・休忍?から
 兵を集めようとしますが各集団はお断りしたと云う記述が。
 従いまして、新羅は377年以前に集団形成された事になります。
 先週の百済出現の際、345年に新羅表記は登場していません。
 論理的には345年~377年の間に新羅が成立したと考えられます。
 更に、382年にも新羅は前秦に朝貢したとか。
 これらの結果、
 高(句)麗はBC37年
 百済は313年~345年間
 新羅は345年~377年間
 この順で3集団は固有名詞として歴史上に登場したことになります。
 今回の珍島沖の客船沈没事故に心からお悔やみを申し上げますが、
 この珍島、かの時代においては百済に属するエリアになります。
 そんなこんだで、そろそろ神功皇后・建內宿祢〈禰)さん達に
 お叱りを受けそうなので古事記に戻る事にします。        続く。

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2014年4月20日 (日)

百済は晋書 載記 慕容皝で 466

 三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳(伝)で語られていた韓(カン・から)。
 その韓伝の記述では韓半島の南には
 「馬韓」・・・西側
 「辰韓」・・・東側
 「弁辰」・・・中南側
 と云う3集団領域が存在していたとの事です。
 特出は辰韓と馬韓地域では異なる言語が使用されていた事。
 辰韓・弁辰では中国峡西(せんせい)地区言語(方言)で
 馬韓では土着言語。
 (峡西地区は秦の都だった咸陽、前漢の都だった長安があった地域)
 帯方・楽浪郡では当然ながら中国山東・河北地区言語(方言)。
 (中国山東・河北地は黄河下流・黄河北部地域で帯方・楽浪郡近接)
 秦・前漢時代に何らかの事情で中国峡西地区から韓半島東部側に
 移住した、所謂、華僑の末裔が辰韓地区に住まっていた事に。
 又、都市国家構造が
 辰韓・弁辰では中国城郭都市型で
 馬韓では城郭を設けない簡素な都市構造だったとの事。
 これも辰韓・弁辰地区は華僑の末裔の文化反映と思われます。
 これが南韓半島での、三国時代~西晋王朝の3世紀状況。
 そして、4世紀に入り西晋王朝が崩壊(313年)。
 中国統一王朝が瓦解、北狄(てき)・東夷をリーダーとする
 群雄割拠の五胡十六国時代(304~439)へ突入。
 楽浪・帯方郡も消滅。
 そして、いよいよ 「百済」 が韓半島に出現するのです。
 「晋書」(648年成立)の載記 慕容皝の記述で
 前燕(337~370)の首都、「龍城(現在の遼寧省朝陽)」 に
 「高句麗・百済及び宇文族・段族の人々は皆、
  捕虜となって来たもの」 と。(345年)
 (宇文部族・段部族は鮮卑族の一部族。)
 これらの資料から、百済は313年~345年間に誕生した結論に。
 又、「(北)魏書」 列伝 百済の記述で(554~559年成立)
 「臣(百済)と高句麗とは、源は夫余(ふよ)に出で、先世の時、
  篤く旧款を尊べり。その祖の釗(ショウ)は軽々しく隣好を廃し、
  親ら土衆を率い、臣の境を陵践す。臣の祖の須は旅を整えて
  電邁し、機に応じて馳撃し、矢石をしばらく交わりて、
  釗の首を梟斬す。それ以来、敢えて南顧すること莫し。」
 これに依ると、百済王(リーダー)は馬韓人ではなく
 高句麗と同じ夫余族出身の方と云う事。
 さて来週は神功皇后を擁する倭船(「舩」)軍団初上陸した
 「新羅」 がいつ歴史上に登場したか探ります。         続く。

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2014年4月13日 (日)

前晋朝倒れ 楽浪・帯方郡から撤退 465

 以前紹介しました、国宝とされる 「石上神宮所蔵の 『七支刀』」。
 ご確認頂きますと刀の表面の刻印(象嵌〈ぞうがん〉)は
 
 泰囗四年(囗囗)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀囗辟百兵供供
 侯王囗囗囗囗作

 又、裏面は
 先世以来未有此刀百済囗世囗奇生聖音故爲倭王旨造囗囗囗世

 と判読されています。
 
 七支刀の裏面の百は明確に 「百」 と確認できます。
 しかし、その下の刻印文字は鮮明ですがわたくしどもは判読不能。
 研究者の方々はこれを 「濟」 とし 「百済」 と規定されています。
 そして、その後ろに 「為倭王(わおうのために)」 造りと。
 「百済囗世囗」 が未だかって無かった霊験灼(あらた)かな七支刀を
 倭王にプレゼントした事実が明らかに。
 そして、表面の 「泰囗四年(囗囗)月十六日丙午正陽」。
 これが造作年月日、及び、時刻を表現している処。
 泰囗四年、泰囗の4年、これでは如何ともしがたいです。
 只、推定は可能です。
 先ず、297年成立の 「三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳(伝)」 に
 百済の表記がありません。
 次に、晋書 帝紀 簡文帝(320~372) 
 咸安2年(372年)6月に  
 「使を遣わして百済王余句を拝して
  鎮東将軍 領楽浪太守となる。」 と記載されている。
 (晋書は唐王朝〈618~907〉時代の648年成立。)
 又、313年まで楽浪・帯方郡の軍管区は西晋王朝の所轄。
 313年に西晋王朝の都、洛陽が内紛により陥落してしまったのです。
 それに伴い、楽浪・帯方郡のヘッド、張統はこの地区から撤退、
 中国東北部、遼東・遼西地区を掌握していた
 慕容廆(ぼようかい)(東夷である鮮卑族〈269~333〉)の下へ走る事に。
 やがて、西晋王朝の軛(くびき)から解き放された楽浪・帯方郡に
 お住まいだった土着民の方・中国からこの地に移動された方々が
 立ち上る機会を得る事になるのです。
 と思いきや、この機を逃さず高(句)麗は一気に南下するのです。
 しかし、慕容廆の息子、慕容皝(ぼようこう〈296~348〉)が興した
 前燕(337~370)との攻防があり
 韓半島奥深くまで進入することは叶わなかった感じ。
 百済勃興の年代推定は又、来週に。                               続く。

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2014年4月 6日 (日)

高(句)麗と倭 歴史記述の初 464

 (前)漢書に依ると、
 (漢書は後漢〈25~220〉時代の班固の撰で82年頃成立した事に。)
 BC108 年、前漢の武帝、劉徹(BC156~BC87)は
 渤海(ぼっかい)、及び、韓半島を制圧、
 北から玄菟・楽浪・臨屯・真番郡の4軍管区を設置。
 BC82 年、武帝の息子、昭帝(BC94~BC74)の際、
 真番(しんばん)郡を楽浪(らくろう)郡に編入。
 又、時を経ず臨屯(りんとん)郡も楽浪郡に編入とか。
 玄菟(げんと)郡の司令部が 「高句麗県(都市名)」 に置かれた。
 (麗の表記は馬偏に麗)
 (玄菟郡は鴨緑江〈(おうりょくこう〉の上流地域一帯と)
 やがて、漢王朝の財政的理由からこの玄菟郡も遼東郡管轄に。
 旧玄菟郡の地区は漢王朝の支配力が低下、
 そして、この地区に住まう方々からリーダーが輩出し
 高(句)麗と云う領域(エリア)が生成される事に。
 先週紹介しましたが、もう一度、
 中国王朝の歴史は
 前漢(BC206~8) ⇒ 後漢(25~220) ⇒ 三国時代(220~280) ですが
 中国王朝の歴史書作成時系列は
 (前)漢書(82頃) ⇒ 三国志〈魏書〉(297) ⇒ 後漢書(432)に。
 その三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳(伝)に依ると、
 高(句)麗はBC37年に成立したとの事。
 一方、最後の倭について、
 「倭」 の初見は三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳(伝)よりも前の
 (前)漢書に登場しているのです。
 (前)漢書 地理志に
 「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
 「楽浪の海中に倭人あり。
   分れて百余国となる。
   歳時をもって来たりて献見す。」
 尚、この楽浪郡の司令部は 「朝鮮県(都市名)」 にあったと。
 朝鮮県は現在の北朝鮮の首都、平壌(ピョンヤン)の対岸地区との事。
 又、「倭」 につきましては後々詳しく。             続く。

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