百済は晋書 載記 慕容皝で 466
三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳(伝)で語られていた韓(カン・から)。
その韓伝の記述では韓半島の南には
「馬韓」・・・西側
「辰韓」・・・東側
「弁辰」・・・中南側
と云う3集団領域が存在していたとの事です。
特出は辰韓と馬韓地域では異なる言語が使用されていた事。
辰韓・弁辰では中国峡西(せんせい)地区言語(方言)で
馬韓では土着言語。
(峡西地区は秦の都だった咸陽、前漢の都だった長安があった地域)
帯方・楽浪郡では当然ながら中国山東・河北地区言語(方言)。
(中国山東・河北地は黄河下流・黄河北部地域で帯方・楽浪郡近接)
秦・前漢時代に何らかの事情で中国峡西地区から韓半島東部側に
移住した、所謂、華僑の末裔が辰韓地区に住まっていた事に。
又、都市国家構造が
辰韓・弁辰では中国城郭都市型で
馬韓では城郭を設けない簡素な都市構造だったとの事。
これも辰韓・弁辰地区は華僑の末裔の文化反映と思われます。
これが南韓半島での、三国時代~西晋王朝の3世紀状況。
そして、4世紀に入り西晋王朝が崩壊(313年)。
中国統一王朝が瓦解、北狄(てき)・東夷をリーダーとする
群雄割拠の五胡十六国時代(304~439)へ突入。
楽浪・帯方郡も消滅。
そして、いよいよ 「百済」 が韓半島に出現するのです。
「晋書」(648年成立)の載記 慕容皝の記述で
前燕(337~370)の首都、「龍城(現在の遼寧省朝陽)」 に
「高句麗・百済及び宇文族・段族の人々は皆、
捕虜となって来たもの」 と。(345年)
(宇文部族・段部族は鮮卑族の一部族。)
これらの資料から、百済は313年~345年間に誕生した結論に。
又、「(北)魏書」 列伝 百済の記述で(554~559年成立)
「臣(百済)と高句麗とは、源は夫余(ふよ)に出で、先世の時、
篤く旧款を尊べり。その祖の釗(ショウ)は軽々しく隣好を廃し、
親ら土衆を率い、臣の境を陵践す。臣の祖の須は旅を整えて
電邁し、機に応じて馳撃し、矢石をしばらく交わりて、
釗の首を梟斬す。それ以来、敢えて南顧すること莫し。」
これに依ると、百済王(リーダー)は馬韓人ではなく
高句麗と同じ夫余族出身の方と云う事。
さて来週は神功皇后を擁する倭船(「舩」)軍団初上陸した
「新羅」 がいつ歴史上に登場したか探ります。 続く。
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