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2014年4月13日 (日)

前晋朝倒れ 楽浪・帯方郡から撤退 465

 以前紹介しました、国宝とされる 「石上神宮所蔵の 『七支刀』」。
 ご確認頂きますと刀の表面の刻印(象嵌〈ぞうがん〉)は
 
 泰囗四年(囗囗)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀囗辟百兵供供
 侯王囗囗囗囗作

 又、裏面は
 先世以来未有此刀百済囗世囗奇生聖音故爲倭王旨造囗囗囗世

 と判読されています。
 
 七支刀の裏面の百は明確に 「百」 と確認できます。
 しかし、その下の刻印文字は鮮明ですがわたくしどもは判読不能。
 研究者の方々はこれを 「濟」 とし 「百済」 と規定されています。
 そして、その後ろに 「為倭王(わおうのために)」 造りと。
 「百済囗世囗」 が未だかって無かった霊験灼(あらた)かな七支刀を
 倭王にプレゼントした事実が明らかに。
 そして、表面の 「泰囗四年(囗囗)月十六日丙午正陽」。
 これが造作年月日、及び、時刻を表現している処。
 泰囗四年、泰囗の4年、これでは如何ともしがたいです。
 只、推定は可能です。
 先ず、297年成立の 「三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳(伝)」 に
 百済の表記がありません。
 次に、晋書 帝紀 簡文帝(320~372) 
 咸安2年(372年)6月に  
 「使を遣わして百済王余句を拝して
  鎮東将軍 領楽浪太守となる。」 と記載されている。
 (晋書は唐王朝〈618~907〉時代の648年成立。)
 又、313年まで楽浪・帯方郡の軍管区は西晋王朝の所轄。
 313年に西晋王朝の都、洛陽が内紛により陥落してしまったのです。
 それに伴い、楽浪・帯方郡のヘッド、張統はこの地区から撤退、
 中国東北部、遼東・遼西地区を掌握していた
 慕容廆(ぼようかい)(東夷である鮮卑族〈269~333〉)の下へ走る事に。
 やがて、西晋王朝の軛(くびき)から解き放された楽浪・帯方郡に
 お住まいだった土着民の方・中国からこの地に移動された方々が
 立ち上る機会を得る事になるのです。
 と思いきや、この機を逃さず高(句)麗は一気に南下するのです。
 しかし、慕容廆の息子、慕容皝(ぼようこう〈296~348〉)が興した
 前燕(337~370)との攻防があり
 韓半島奥深くまで進入することは叶わなかった感じ。
 百済勃興の年代推定は又、来週に。                               続く。

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