烏丸鮮卑東夷傳(伝) 463
高〈句〉麗が歴史上に登場するのは
「三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳(伝)」 が初見。
(三国時代前の後漢について記述された 「後漢書」 は
この三国志より後の5世紀にできあがったもの)
この歴史書は陳寿(233~297)の著作。
晋朝に 「正史扱い」 と認められたのは陳寿の死後で、同年297年。
正史扱いとして取り上げられたのは彼の上司、張華の尽力。
張華(232~300)は時の恵帝の妻、賈皇后(257~300)により
官僚のトップ(司空)となった学才豊かで努力家なお方とか。
この烏丸鮮卑東夷傳(伝)には
烏丸・鮮卑・夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭について
述べられています。広辞苑での説明は(一部補足)
烏丸(うがん)
漢代、遼河の上流老哈(らおは)河畔に拠った東胡の後裔。
前漢時代(BC202~8)には匈奴に服属、
後漢時代(25~220)になるとしばしば中国に侵寇したが、
207年に魏の曹操に敗れ、余類の多くは鮮卑の諸部(族)に逃れた。
(遼河・・・中国東北地区南部の大河)
(匈奴・・・BC3世紀からAD5世紀に中国を脅かした北方遊牧民族)
匈奴のリーダー呼称、「単于(ぜんう)」 について
「当芸志美美命が前后を娶る」 でちょいと触れました。
(曹操・・・三国志でメジャーな方〈155~220〉)
鮮卑(せんぴ)
古代アジアのモンゴル系(トルコ系とも)に属する遊牧民族。
中国戦国時代(BC403~BC221)から興安嶺の東に拠った。
2世紀中葉、遼東から内外モンゴルを含んで大統一したが、
三国時代(220~280)、慕容・宇文・拓跋などの部族集団に分裂。
晋代に、前燕・後燕・西燕・南燕・西秦・南涼の国を建て、
拓跋部族は南北朝時代(439~589)に北魏(398~534)を建てた。
(興安嶺・・・中国東北部の高原ないし丘陵性の山系)
(遼東・・・中国遼寧省南東部一帯の地)
夫餘=夫余・扶余(ふよ)
BC1世紀から5世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。
東沃沮(とうよくそ)
漢・魏(220~265)代に朝鮮北東部にいた種族。
挹婁(ゆうろう)
漢・魏代に中国東北地方東部に住んだ古代部族。
後に粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)は渤海国を
又、黒水靺鞨は女真と称した。
濊(くわい)=穢貊(くわいはく)
主に中国東北部から朝鮮北部・東部に住んだ
古代のツングース系種族。
夫余・高句麗・沃沮などはこれに属する。
韓(から)
朝鮮南部の古国の名に基づく、朝鮮の古称。
そして残るは 「高(句)麗」 と 「倭」 は来週に。 続く。