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2014年3月30日 (日)

烏丸鮮卑東夷傳(伝) 463

 高〈句〉麗が歴史上に登場するのは
  「三国志 魏書 烏丸鮮卑東夷傳(伝)」 が初見。
 (三国時代前の後漢について記述された 「後漢書」 は
 この三国志より後の5世紀にできあがったもの)
 この歴史書は陳寿(233~297)の著作。
 晋朝に 「正史扱い」 と認められたのは陳寿の死後で、同年297年。
 正史扱いとして取り上げられたのは彼の上司、張華の尽力。
 張華(232~300)は時の恵帝の妻、賈皇后(257~300)により
 官僚のトップ(司空)となった学才豊かで努力家なお方とか。
 この烏丸鮮卑東夷傳(伝)には
 烏丸・鮮卑・夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭について
 述べられています。広辞苑での説明は(一部補足)
 烏丸(うがん)
 漢代、遼河の上流老哈(らおは)河畔に拠った東胡の後裔。
 前漢時代(BC202~8)には匈奴に服属、
 後漢時代(25~220)になるとしばしば中国に侵寇したが、
 207年に魏の曹操に敗れ、余類の多くは鮮卑の諸部(族)に逃れた。
  (遼河・・・中国東北地区南部の大河)
 (匈奴・・・BC3世紀からAD5世紀に中国を脅かした北方遊牧民族)
 匈奴のリーダー呼称、「単于(ぜんう)」 について
 「当芸志美美命が前后を娶る」 でちょいと触れました。
  (曹操・・・三国志でメジャーな方〈155~220〉)
 鮮卑(せんぴ)
 古代アジアのモンゴル系(トルコ系とも)に属する遊牧民族。
 中国戦国時代(BC403~BC221)から興安嶺の東に拠った。
 2世紀中葉、遼東から内外モンゴルを含んで大統一したが、
 三国時代(220~280)、慕容・宇文・拓跋などの部族集団に分裂。
 晋代に、前燕・後燕・西燕・南燕・西秦・南涼の国を建て、
 拓跋部族は南北朝時代(439~589)に北魏(398~534)を建てた。
  (興安嶺・・・中国東北部の高原ないし丘陵性の山系)
 (遼東・・・中国遼寧省南東部一帯の地)
 夫餘=夫余・扶余(ふよ)
 BC1世紀から5世紀まで、中国東北地方北部に活動した民族。
 東沃沮(とうよくそ)
 漢・魏(220~265)代に朝鮮北東部にいた種族。
 挹婁(ゆうろう)
 漢・魏代に中国東北地方東部に住んだ古代部族。
 後に粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)は渤海国を
 又、黒水靺鞨は女真と称した。
 (くわい)=穢貊(くわいはく)
 主に中国東北部から朝鮮北部・東部に住んだ
 古代のツングース系種族。
 夫余・高句麗・沃沮などはこれに属する。
 (から)
 朝鮮南部の古国の名に基づく、朝鮮の古称。
  そして残るは 「高(句)麗」 と 「倭」 は来週に。            続く。

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2014年3月23日 (日)

辛卯年(391年)好太王即位 462

 広開土太王碑のお陰で
 初めて古事記の描写が歴史事実と一致する快挙!!
 古事記表記では 「新羅之國」 「百濟國」 とされていますが
 この 「國」 は現代の国民国家の 「国」 とは同一ではありません。
 国民国家に関してはわたくしの祖父が少し披瀝していますので
 そちらをご確認頂けますと幸いです。

 「民主主義は日本文化とは違和」
 「国民国家の語源解きほぐし」
 「第二番目の国民国家 フランス」
 「日本・清朝の国民国家化」
 「国民国家 故の尖閣諸島領土問題」

 祖父が 「國」 を解きほぐしてますように、
 この国構え=囗が示していますように進入経路が閉ざされています。
 この囗の領域に人・矛・土地が存在。
 イメージ的には 「城郭都市(国家)」 って感じに。
 又、都市の 「市」 は市場の事。
 そこを踏まえて、前回紹介しました広開土太王碑の
 「而倭以辛卯年来渡海破百残◯◯◯羅以爲臣民」 の件に。
 あっ、ちょっとその前に碑の 「辛卯年」 について。
 辛卯(かのとのう・シンボウ)年は干支紀年法での年度表記です。
 干支紀年法は60年周期。
 十干十二支につきましては 「旧暦・十干十二支・陰陽五行説」 で。
 そして、この辛卯年を研究者の皆様は西暦391年とされています。
 -60の331年、+60の451年ではないのです。
 ではどうして西暦391年と確定できるのは
 中国晋王朝(265~420)の歴史書 「晋書」 に依るのです。
  「晋書」 は歴史が下り、唐王朝(618~907)時代、唐の二代目皇帝、
 太宗(李世民)(598~649 在位626~649)が編纂させた歴史書。
 この歴史書により辛卯年=西暦391年と特定される事に。
 高〈句〉麗の王(リーダー)好太王(374~412?)は
 この年に父、故国壌(ここくじょう)の死去に伴い即位。(晋書)
 又、高〈句〉麗・新羅・百濟の内、
 高〈句〉麗が一番最初、歴史上に登場しているのです。   続く。

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2014年3月16日 (日)

軍船渡航上陸 広開土王碑に 461

 神託をされた神は底筒男・中筒男・上筒男の神々であり
 綿津見(海神)神の末裔と正体を明らかされました。
 その後の住吉三神は尚大胆なお告げを続けます。
 「西方有国 金銀為本 目之炎耀種種珍宝 多在其国」
 この金銀・珍宝が盛り沢山ある国が欲しいなら
 天神地祇(天の神〈天つ神〉・地の神〈国つ神〉)のみならず
 山・河・海、自然界におわします
 全ての神々に 「奉幣帛」(供え物をし)、
 私の魂を船上に祭り、
 真木(檜)灰を瓢箪に納め、
 箸と 「比羅伝(ひらで)」 をたくさん作り、
 (比羅伝とは柏の葉製の食器とか)
 それらを、大海に散らし浮かし渡るが良いと。
 この 「お告げ」 の通りに
 (と云うよりも建內宿祢〈禰〉らは筋書き?に従い)
 大海原を西へ向かう事になるのです。
 「整軍」 ですので軍艦と迄いかなくても兵を乗せた船(「舩」)を
 整えたのです。
 これって西方の金銀・珍宝が盛り沢山ある国を征圧しに赴く感じ。
 主語が欠如していますが、
 この軍船(「舩」)団リーダーは神功皇后で参謀は建內宿祢〈禰〉?
 いざ、軍船(「舩」)を繰り出すと
 さすが、綿津見(海神)神のご加護あり、海は穏やか、
 潮目も西方航路にぴったり・・・・・。
 海路は至って順調、勢い 「新羅之國(国)」 に到着する顛末。
 「新羅」 に上陸後は一挙に、素早く前進、平定?、更に進軍、
 「百濟(済)國(国)」 にも到達。
 ここで、「新羅」・「百済」 について
 新羅の初見は今現在 「広開土太王碑」 とされています。
 百済の初見は 「石上神宮所蔵の 『七支刀』」。
 広開土太王碑は好太王の業績を讃える為、
 息子の長寿王が建立した石碑。
 好太王(374~412?)は高〈句〉麗の王(リーダー)。
 この石碑に新羅・百済と記載されているのです。
 又、有り難いことに? 「倭」 も登場するのです。
 取り急ぎ、東京大学文学部・大学院人文社会系研究科の
 「広開土王碑の拓本」 をご覧下さい。
 「新羅」・「倭」 はこの通りの表記ですが、
 「百濟(済)」 は「百残」 となっています・・・・・。
 先達は百残=百濟(済)と見なしておられますのでそのまま・・・。
 そして、正に神功皇后をリーダーとする
 西方の金銀・珍宝が盛り沢山ある国への軍船渡航上陸事実が
 この広開土太王碑に記載されていたのです。
 「而倭以辛卯年来渡海破百残◯◯◯羅以爲臣民」 と。   
 (上記 図2 東大文学部A本Ⅰ面 の9行目)            続く。

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2014年3月 9日 (日)

住吉三神の再登場 460

 仲哀帝の突然の崩御に驚き畏(かしこ)「懼」んで帝のご遺体を
 「殯(もがり)宮」 に安置。
 周りの国々から色んな品々を調達、
 お気を悪くされた神(お告げ神)に奉納。
 更に、
 「生剥 逆剥 阿離 溝埋 屎戸 上通下通婚 馬婚 牛婚 鷄婚」
 等々の罪の類(たぐい)を探索「求」、
 それらの罪を犯した方々の祓い清め 「大祓」 を取り行った。
 「生剥・逆剥」 は読んで字の如く
 この罪は前出です。 「速須佐之男命の命倶楽部」
 「阿離(あはなち)」 は田んぼの畦道を破壊する罪との事。
 「溝埋(みぞうみ)」 は田んぼの溝を埋める罪。
 「屎戸(くそへ)」 これも想像可能。
 この罪も前出です。 「吉凶占いの結果は如何に」 で。
 「上通下通婚」 これは(おやこ たわけ〈戯け〉)と読むそうです。
 後はお分かりですよね?
 これらを以て、仲哀帝の厄払いは滞りなく終了。
 更に不思議な事が続きます。
 仲哀帝がお亡くなりになったにも関わらず
 建內宿祢(禰)は神懸かりされた神功皇后に再度神託を求めます。
 そしてその神託(お告げ)は前回と全く同じだったとか。
 違った箇所は帝亡き後、
 この国の統治者は神功皇后のお腹にいらっしゃるお方だと云う事。
 建內宿祢(禰)は追っかけ次なるお告げを求めます。
 神功皇后のお腹のお子さんは 「男の子・女の子」 どちらと。
 ご神託はめでたく? 「男子」 と。
 更なる建內宿祢(禰)の質問が続きます。
 「このお告げをされておられる神は
  一体どちら様なのでしょうか?」 と。
 すると神懸かりされた神功皇后を通して即、返事が。
 その答えは
 「この神託は天照大神のお気持ちである。
  又、私は 『底筒男中筒男上筒男三柱大神者也』」 であると。
 底筒男・中筒男・上筒男の神々は遙か昔に登場されています。
 何と、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が
 天照大神より前にお作りになられた神々なのです。
 詳しくは
 「伊邪那岐命の禊ぎの神1」
 「伊邪那岐命の禊ぎの神2」
 「伊邪那岐命の禊ぎ究極3柱神」 をご覧下さい。
 底筒男・中筒男・上筒男の神々は綿津見(海神)神の末裔、
 海を守り、航行安全を司る神です。
 この3神(柱)は住吉大社(旧摂津国)の祭神とされています。
 住吉三神はなぜ摂津国に?
 これは後に明らかになると・・・・・。                            続く。

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2014年3月 2日 (日)

神懸かり神功皇后のご神託 459

 この帯中日子天皇(=仲哀帝)と息長帯姫命(=神功皇后)登場の
 シーンで 「帝の住まい」 が突如、
 倭(大和)国から長門・筑紫国に変化しているのです。
 「坐穴門之豊浦宮 及 筑紫訶志比宮 治天下也」
 穴門(後の長門)の豊浦、及び、筑紫の訶志比(=香椎)に変貌。
 根拠地と思われる倭(大和)国は一体どうなったのかしら
 まあ、そこの処はひとまずおいておく事にして、
 読み進むと更に変な展開なのです。
 処は筑紫国の香椎宮。
 帯中日子天皇(=仲哀帝)と息長帯姫命(=神功皇后)共々
 こちらに駐屯されておられるのです。
 その理由は
 「将撃熊曽国之時」 と記されていますので
 以前、仲哀帝の父親、倭建命が平定したにも関わらず
 再度の熊曽征伐と。
 素直に斟酌すれば熊曽軍団が倭(大和)軍団に再叛旗と云う事に
 なるのでしょう。
 しかしながら、
 仮にそうであるなら倭建命の西征は中途半端だった事になります。
 一応、その様にして読み進むと更なる不可思議な展開に。
 何と神功皇后は巫女(みこ)として登場。
 「当時帰神(神懸かり)」。
 時は深夜。
 彼女の夫、仲哀帝は熊曽征伐の吉凶を
 神懸かりした妻、神功皇后に占ってもらう段取り。
 このお二人のサポート役は 「建內宿祢大臣」。
 建內宿祢(禰)は8孝元帝のお孫さんとして以前登場されています。
 「稲置・宿禰の姓が出現
 仲哀帝は歴代14代目とされていますので時間軸も不可思議に。
 それにも目を瞑り、占い儀式へ。
 この儀式模様は
 仲哀帝が宮中で琴の演奏、建內宿祢(禰)が前庭で待機状態。
 (「天皇控御琴而 建內宿祢大臣 居於沙庭 請神之命」)
 この環境で神をお告げを請け賜る設定。
 そして、いざ、神功皇后を介してのご神託は
 「西方有国 金銀為本 目之炎耀種種珍宝 多在其国
  吾今帰賜其国」
 西(日が沈む)の方に国がある。
 その国は金銀・目が輝く程の色んな宝物が沢山ある。
 あなたにその国を与えよう。
 との有り難い?お告げ。
 早速、仲哀帝は小高い山に登り西方を見るも大海原しか確認できず
 お告げの神に
 「不見國土 唯有大海 謂為詐神而」
 国なんかありゃしない、海ばっかり、嘘おっしゃい。
 とばかりにお琴を押しのけ弾かずに黙り座る体たらく。
 この不適な振る舞いにお告げの神は怒り心頭で
 「お前は天下(この世)を治める器ではない・・・・・」 と
 この遣り取りを聞いていた建內宿祢(禰)は違和を感じ
 仲哀帝に
 「どうかお琴をお弾き下さい(ご神託をご理解下さい)。」
 と畏れながらお願い申し上げた。
 仲哀帝は彼の嘆願を聞き入れお琴を弾き始めたが
 だんだん音色(ねいろ)が微(かす)かになりやがて無音に。
 不信の思った建內宿祢(禰)が明かりを炊くと
 既に仲哀帝はお亡くなりになっておられたのです。           続く。

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