軍船渡航上陸 広開土王碑に 461
神託をされた神は底筒男・中筒男・上筒男の神々であり
綿津見(海神)神の末裔と正体を明らかされました。
その後の住吉三神は尚大胆なお告げを続けます。
「西方有国 金銀為本 目之炎耀種種珍宝 多在其国」
この金銀・珍宝が盛り沢山ある国が欲しいなら
天神地祇(天の神〈天つ神〉・地の神〈国つ神〉)のみならず
山・河・海、自然界におわします
全ての神々に 「奉幣帛」(供え物をし)、
私の魂を船上に祭り、
真木(檜)灰を瓢箪に納め、
箸と 「比羅伝(ひらで)」 をたくさん作り、
(比羅伝とは柏の葉製の食器とか)
それらを、大海に散らし浮かし渡るが良いと。
この 「お告げ」 の通りに
(と云うよりも建內宿祢〈禰〉らは筋書き?に従い)
大海原を西へ向かう事になるのです。
「整軍」 ですので軍艦と迄いかなくても兵を乗せた船(「舩」)を
整えたのです。
これって西方の金銀・珍宝が盛り沢山ある国を征圧しに赴く感じ。
主語が欠如していますが、
この軍船(「舩」)団リーダーは神功皇后で参謀は建內宿祢〈禰〉?
いざ、軍船(「舩」)を繰り出すと
さすが、綿津見(海神)神のご加護あり、海は穏やか、
潮目も西方航路にぴったり・・・・・。
海路は至って順調、勢い 「新羅之國(国)」 に到着する顛末。
「新羅」 に上陸後は一挙に、素早く前進、平定?、更に進軍、
「百濟(済)國(国)」 にも到達。
ここで、「新羅」・「百済」 について
新羅の初見は今現在 「広開土太王碑」 とされています。
百済の初見は 「石上神宮所蔵の 『七支刀』」。
広開土太王碑は好太王の業績を讃える為、
息子の長寿王が建立した石碑。
好太王(374~412?)は高〈句〉麗の王(リーダー)。
この石碑に新羅・百済と記載されているのです。
又、有り難いことに? 「倭」 も登場するのです。
取り急ぎ、東京大学文学部・大学院人文社会系研究科の
「広開土王碑の拓本」 をご覧下さい。
「新羅」・「倭」 はこの通りの表記ですが、
「百濟(済)」 は「百残」 となっています・・・・・。
先達は百残=百濟(済)と見なしておられますのでそのまま・・・。
そして、正に神功皇后をリーダーとする
西方の金銀・珍宝が盛り沢山ある国への軍船渡航上陸事実が
この広開土太王碑に記載されていたのです。
「而倭以辛卯年来渡海破百残◯◯◯羅以爲臣民」 と。
(上記 図2 東大文学部A本Ⅰ面 の9行目) 続く。
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