辛卯年(391年)好太王即位 462
広開土太王碑のお陰で
初めて古事記の描写が歴史事実と一致する快挙!!
古事記表記では 「新羅之國」 「百濟國」 とされていますが
この 「國」 は現代の国民国家の 「国」 とは同一ではありません。
国民国家に関してはわたくしの祖父が少し披瀝していますので
そちらをご確認頂けますと幸いです。
「民主主義は日本文化とは違和」
「国民国家の語源解きほぐし」
「第二番目の国民国家 フランス」
「日本・清朝の国民国家化」
「国民国家 故の尖閣諸島領土問題」
祖父が 「國」 を解きほぐしてますように、
この国構え=囗が示していますように進入経路が閉ざされています。
この囗の領域に人・矛・土地が存在。
イメージ的には 「城郭都市(国家)」 って感じに。
又、都市の 「市」 は市場の事。
そこを踏まえて、前回紹介しました広開土太王碑の
「而倭以辛卯年来渡海破百残◯◯◯羅以爲臣民」 の件に。
あっ、ちょっとその前に碑の 「辛卯年」 について。
辛卯(かのとのう・シンボウ)年は干支紀年法での年度表記です。
干支紀年法は60年周期。
十干十二支につきましては 「旧暦・十干十二支・陰陽五行説」 で。
そして、この辛卯年を研究者の皆様は西暦391年とされています。
-60の331年、+60の451年ではないのです。
ではどうして西暦391年と確定できるのは
中国晋王朝(265~420)の歴史書 「晋書」 に依るのです。
「晋書」 は歴史が下り、唐王朝(618~907)時代、唐の二代目皇帝、
太宗(李世民)(598~649 在位626~649)が編纂させた歴史書。
この歴史書により辛卯年=西暦391年と特定される事に。
高〈句〉麗の王(リーダー)好太王(374~412?)は
この年に父、故国壌(ここくじょう)の死去に伴い即位。(晋書)
又、高〈句〉麗・新羅・百濟の内、
高〈句〉麗が一番最初、歴史上に登場しているのです。 続く。
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