« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »

2014年2月23日 (日)

仲哀帝と神宮皇后登場 458

 この仲哀帝と神宮皇后が登場する描写では初めて外国の地名が
 表記されます。
 その地名は「新羅」と「百濟(済)」。
 更に久しぶりに 「天照大神」 の表記も見られます。
 先ずは古事記原文をご覧ください。

帶中日子天皇(=仲哀帝)
坐穴門之豐浦宮
及筑紫訶志比宮
治天下也。
此天皇
娶大江王之女
大中津比賣命
生御子
香坂王
忍熊王 二柱
又娶息長帶比賣命(=神功皇后)
是大后生御子
品夜和氣命
次大鞆和氣命
亦名品陀和氣命(=応神帝) 二柱
此太子之御名
所以負大鞆和氣命者
初所生時
如鞆宍生御腕故
著其御名
是以知坐腹中定國也
此之御世
定淡道之屯家也

其大后息長帶日賣命者
當時歸神
故天皇坐筑紫之訶志比宮
將擊熊曾國之時
天皇控御琴而
建內宿祢大臣
居於沙庭
請神之命
於是大后歸神
言教覺詔者
西方有國
金銀爲本
目之炎耀種種珍寶
多在其國
吾今歸賜其國
爾天皇答白
登高地
見西方者
不見國土
唯有大海
謂爲詐神而
押退御琴
不控
默坐
爾其神大忿詔
凡茲天下者
汝非應知國
汝者向一道
於是建內宿祢大臣白
恐我天皇
猶阿蘇婆勢其大御琴(自阿至勢以音)
爾稍取依其御琴而
那摩那摩邇(此五字以音)
控坐故
未幾久而
不聞御琴之音
即擧火見者
既崩訖
爾驚懼而
坐殯宮
更取國之大奴佐而(奴佐二字以音)
種種求
生剥逆剥
阿離溝埋屎戸
上通下通婚
馬婚牛婚鷄婚之罪類
爲國之大祓而
亦建內宿祢居於沙庭
請神之命
於是教覺之狀
具如先日
凡此國者
坐汝命御腹之御子
所知國者也
爾建內宿祢白
恐我大神
坐其神腹之御子
何子歟
答詔男子也
爾具請之
今如此言教之大神者
欲知其御名
即答詔
是天照大神之御心者
亦底筒男中筒男上筒男
三柱大神者也(此時其三柱大神之御名者顯也)
今寔思求其國者
於天神地祇
亦山神及河海之諸神
悉奉幣帛
我之御魂坐于船上而
眞木灰納瓠
亦箸及比羅傳(此三字以音)
多作
皆皆散浮大海
以可度
故備如教覺
整軍
雙舩
度幸之時
海原之魚
不問大小
悉負御舩而渡
爾順風大起
御舩從浪
故其御舩之波瀾
押騰新羅之國
既到半國
於是其國王畏惶奏言
自今以後
隨天皇命而
爲御馬甘
毎年雙舩
不乾舩腹
不乾◯檝  ◯は舟偏に也
共與天地
無退仕奉
故是以新羅國者
定御馬甘
百濟國者
定渡屯家
爾以其御杖
衝立新羅國主之門
即以墨江大神之荒御魂
爲國守神而
祭鎭
還渡也
故其政未竟之間
其懷妊臨產
即爲鎭御腹取石以纒御裳之腰而
渡筑紫國
其御子者阿禮坐(阿禮二字以音)
故號其御子生地
謂宇美也
亦所纒其御裳之石者
在筑紫國之伊斗村也
亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而
御食其河邊之時
當四月之上旬
爾坐其河中之礒
拔取御裳之糸
以飯粒爲餌
釣其河之年魚
(其河名謂小河 亦其礒名謂 勝門比賣也)
故四月上旬之時
女人拔裳糸
以粒爲餌
釣年魚至于今不絶也

 読み解きは来週に。                                                 続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P53の14行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

| | コメント (0)

2014年2月16日 (日)

倭建命の息子が仲哀帝に 457

 倭建命の係累などの展開箇所。
 その描写から倭建命は少なくても6名の奥様がいらっしゃった事実。
 尾張で愛を育んだ美夜受姫はエントリーされていません。
 又、ここで 「大帯彦淤斯呂和気命=景行帝」 のご子息
 「若帯日子天皇=成務帝」 が父子相続します。
 しかし、この成務帝の事跡は全く展開されず
 尚かつ彼の次の帝は
 倭建命の息子さん 「帯中津日子命=仲哀帝」 が繋ぐ事に。
 そこの古事記原文です。

此倭建命
娶伊玖米天皇之女  伊玖米天皇=垂仁帝
布多遲能伊理毘賣命(自布下八字以音)
生御子
帶中津日子命(一柱)  帶中津日子=後の仲哀帝
又娶其入海弟橘比賣命
生御子
若建王(一柱)
又娶近淡海之安國造之祖
意富多牟和氣之女
布多遲比賣
生御子
稻依別王(一柱)
又娶吉備臣建日子之妹
大吉備建比賣
生御子
建貝兒王(一柱)
又娶山代之玖玖麻毛理比賣
生御子
足鏡別王(一柱)
一妻之子
息長田別王
凡是倭建命之御子等
并六柱

故帶中津日子命者
治天下也
次稻依別王者(犬上君 建部君等之祖)
次建貝兒王者
(讚岐綾君 伊勢之別 登袁之別 麻佐首 官首之別等之祖)
足鏡別王者
(鎌倉之別 小津 石代之別 漁田之別之祖也)
次息長田別王之子
杙俣長日子王
此王之子
飯野眞黑比賣命
次息長眞若中比賣
次弟比賣(三柱)

上云若建王
娶飯野眞黑比賣
生子
須賣伊呂大中日子王(自須至呂以音)
此王娶淡海之柴野入杵之女
柴野比賣
生子
迦具漏比賣命

故大帶日子天皇
娶此迦具漏比賣命
生子
大江王(一柱)
此王
娶庶妹銀王
生子
大名方王
次大中比賣命(二柱)
故此之大中比賣命者
香坂王忍熊王之御祖也
此大帶日子天皇之御年
壹佰參拾漆歳
御陵在山邊之道上也

若帶日子天皇  若帶日子天皇=後の成務帝
坐近淡海之志賀高穴穗宮
治天下也
此天皇
娶穗積臣等之祖
建忍山垂根之女
名弟財郎女
生御子
和訶奴氣王(一柱)
建内宿祢爲大臣
定賜大國小國之國造
亦定賜國國之堺
及大縣小縣之縣主也
天皇御年
玖拾伍歳
御陵在沙紀之多他那美也

 係累描写ですので特に問題はないと。                         続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P51の14行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

| | コメント (0)

2014年2月 9日 (日)

倭建命 白鳥になり天空に飛翔 456

 倭建命の死は即、早馬(「駅使」)で倭(大和国)に知らされた。
 この期に及んで古事記は新情報を提供します。
 確か倭建命が隼人・東国平定に出かけた時点はそんなにお年を
 召されていなかった筈。
 しかし、彼の訃報を知ったのは父親の景行帝は当然として倭建命の
 お后・お子様達だったのです。
 彼が東国平定に出かけた時点で、既に複数の奥様がいらした事に。
 幾ら。権力者・お金持ちだけの一夫多妻制時代とは云え
 いやはや何とも・・・・・。
 古事記の奇想天外な展開には参ってしまいます事よ。
 少なくても奥様は横須賀沖で身を挺して倭建命を助け入水した
 弟橘姫命だけかと思いきやそうではなかったのです。
 「弟橘姫命の献身」 で彼女の思いやりをご確認ください。
 倭(大和国)にいらした奥様・お子様達は突然の訃報に気が動転
 急いで能煩野(のぼの)へ向かいまい弔います。
 お墓を作り、なき悲しんでその墓前で歌を捧げます。
 
那豆岐能多能 (なづきのた〈田〉の)
伊那賀良邇 (いな〈稲〉がらに)
伊那賀良爾 (いな〈稲〉がらに) 
波比母登富呂布 (は(匍)ひもと〈廻〉ほろふ)
登許呂豆良 (ところづら〈野老蔓〉)

 すると突然倭建命の霊は 「八尋白智鳥」 となり天空に飛翔。
 大きな白鳥は濱(浜=海)へ向かいます。
 奥様・お子様達は彼を追いかけます。
 但し、追いかける道すがらは足下が悪くブッシュだらけ。
 そこで一歌、

阿佐士怒波良 (あさじのはら〈浅小竹原〉)
許斯那豆牟 (こし〈腰〉なづむ)
◯良波由賀受 (そら〈空〉はゆ〈行〉かず)
阿斯用由久那 (あし〈足〉よゆ〈行〉くな)

 大きな白鳥は浜づたいに滑空。
 追いかける奥様・お子様達はここで一歌、

宇美賀由氣婆 (うみ〈海〉がゆ〈行〉けば)
許斯那豆牟 (こし〈腰〉なづむ)
意富迦波良能 (おほかはら〈大河原〉の)
宇惠具佐 (う〈植〉ゑぐさ〈草〉)
宇美賀波 (うみ〈海〉がは)
伊佐用布 (いさよふ)

 更に白鳥は磯(「礒」)づたいに飛行。
 追いすがる奥様・お子様達は、又、ここで一歌、

波麻都知登理 (はま〈浜〉つちどり〈千鳥〉)
波麻用波由迦受 (はま〈浜〉よはゆ〈行〉かず)
伊◯豆多布 (いそ〈磯〉づたふ)

 上の四歌はお葬式の際に歌われるもの。
 故に今(古事記時代)でも 「天皇之大御葬」 時に歌われている。
 更に更に白鳥は飛び続け河内国の志紀(「志幾」)舞い降りた。
 そこでこの地に 「御陵」 を。 通称、「白鳥御陵」 と。
 白鳥はやっと彼の地に留まると思いきやこの地からも更に又、
 天空に飛翔されたとの事。                                        続く。

| | コメント (0)

2014年2月 2日 (日)

倭建命の彷徨・歌謡・落命 455

 倭建命と美夜受姫はめでたく 「御合(みあい=合体)」。
 男(人)は得てして絶頂(期)を迎えると後は転げ落ちるのみ?
 倭建命はそれはそれは楽しい日々を過ごされたのでしょう。
 そこで彼は体の鈍(なま)りに気づいたのか?
 「伊服岐能山(伊吹山)」 神の平定に向かいます。
 ところが悦楽の日々を過ごしすぎたのか、過信からか、
 武器(「草那芸剱」)を美夜受姫の家にオキッパで出かける始末。
 引き返して草那芸剱を得ようとせず
 この山の神は素手で十分と(「徒手直取」)慢心し歩を進めます。
 すると伊吹山神(「白猪」)に出会います。
 この猪は牛程の大きさ(「其大如牛」)だったとか。
 倭建命はこの白猪に向かい
 「お前は伊吹山神の使いだろうが帰りにこらしめてやる」
 と云い放し山に登る挙に。
 登坂の途中、たぶん今年感じの寒い冬だったのでしょう
 大粒な「氷雨」(=雹〈ひょう〉・霰〈あられ〉)が倭建命を襲います。
 この異常気象現象は白猪のなせる業。
 倭建命はこの白猪を伊吹山神の使いを考えた事は大誤算。
 白猪は伊吹山神、そのもの、化身だったのです。
 さすがの倭建命もこの氷雨には大弱り。
 彼の体力は消耗する一方へ。
 これ以後は命を削る彷徨。 あちらこちらをさまよい(彷徨)ます。
 玉倉部 ⇒ 当芸野 ⇒ 杖衝坂 ⇒ 尾津 
 この地で一歌、

袁波理邇 (をはり〈尾張〉に)
多陀邇牟迦幣流 (ただにむかへる)
袁都能佐岐那流 (をつ〈尾津〉のさき〈崎〉なる)
比登都麻都 (ひと〈一〉つまつ〈松〉)
阿勢袁 (あせ〈兄〉を)
比登都麻都 (ひと〈一〉つまつ〈松〉)
比登邇阿理勢婆 (ひと〈人〉にありせば)
多知波氣麻斯袁 (たち〈太刀〉はけましを)
岐奴岐勢麻斯袁 (きぬ〈衣〉き〈着〉せましを)
比登都麻都 (ひと〈一〉つまつ〈松〉)
阿勢袁 (あせ〈兄〉を)

 ⇒ 三重村 ⇒ 能煩野(のぼの)
 ここで一歌、
 
夜麻登波 (やまと〈倭〉は)
久爾能麻本呂婆 (くに〈国〉のまほろば)
多多那豆久 (たたなづく)
阿袁加岐 (あをかき〈青垣〉)
夜麻碁母禮流 (やま〈山〉ごも〈隠〉れる)
夜麻登志 (やまと〈倭〉し)
宇流波斯 (うるは〈麗・美・愛〉し)

 更にもう一歌、

伊能知能 (いのち〈命〉の)
麻多祁牟比登波 (またけむひと〈人〉は)
多多美許母 (たたみこも)
幣具理能夜麻能 (へぐり〈平群〉のやま〈山〉の)
久麻加志賀波袁 (くまかし〈熊白檮〉がは〈葉〉を)
宇受爾佐勢 (うず〈髻華〉にさ〈挿〉せ)
曾能古 (そのこ〈子〉)

 更に更にもう一歌、

波斯祁夜斯 (はしけやし)
和岐幣能迦多用 (わぎへ〈我家〉のかた〈方〉よ)
久毛韋多知久母 (くもい〈雲居〉た〈立〉ちくも)

 そして彼の最後の歌、

袁登賣能 (をとめ〈=美夜受姫〉の)
登許能辨爾 (とこ〈床〉のべに)
和賀淤岐斯 (わがお〈置〉きし)
都流岐能多知 (つるぎ〈剱〉のたち〈太刀〉)
曾能多知波夜 (そのたち〈太刀〉はや)

 とお歌いになり倭建命はあの世に旅立たれた(落命)との事。 続く。

| | コメント (0)

« 2014年1月 | トップページ | 2014年3月 »