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2014年1月26日 (日)

倭建命 白鳥になり飛翔 454

 倭建命は美夜受姫は日をおいて愛の交換。
 ところが、彼は目的を達し有頂天になったのか?
 大事な 「草那藝劒(草那芸剱)」を 彼女の処に置き忘れ
 「伊服岐能山(伊吹山)」 に出かけてしますのです。
 ここから彼は順風満帆から一挙に暗転します。
 その描写の古事記原文です。

故爾御合而
以其御刀之草那藝劒
置其美夜受比賣之許而
取伊服岐能山之神幸行
於是詔
茲山神者
徒手直取而
騰其山之時
白猪逢于山邊
其大如牛
爾爲言擧而詔
是化白猪者
其神之使者
雖今不殺
還時將殺而
騰坐
於是零大氷雨
打惑倭建命
(此化白猪者 非其神之使者 當其神之正身 因言擧 見惑也)
故還下坐之
到玉倉部之淸泉以息坐之時
御心稍寤
故號其淸泉
謂居寤淸泉也
自其處發到當藝野上之時詔者
吾心恒念自△翔行   
然今吾足不得☆   ☆歩の少ないの小の右無し
成當藝當藝斯形(自當下六字以音)
故號其地謂當藝也
自其地
差少幸行
因甚疲衝御杖稍☆
故號其地謂杖衝坂也
到坐尾津前一松之許
先御食之時
所忘其地御刀
不失猶有
爾御歌曰
袁波理邇 
多陀邇牟迦幣流 
袁都能佐岐那流 
比登都麻都 
阿勢袁 
比登都麻都 
比登邇阿理勢婆 
多知波氣麻斯袁 
岐奴岐勢麻斯袁 
比登都麻都 
阿勢袁
自其地幸
到三重村之時
亦詔之吾足
如三重勾而甚疲
故號其地謂三重
自其幸行而到能煩野之時
思國以歌曰
夜麻登波 
久爾能麻本呂婆 
多多那豆久 
阿袁加岐
夜麻碁母禮流 
夜麻登志
宇流波斯
又歌曰
伊能知能 
麻多祁牟比登波 
多多美許母 
幣具理能夜麻能 
久麻加志賀波袁 
宇受爾佐勢
曾能古
此歌者思國歌也
又歌曰
波斯祁夜斯 
和岐幣能迦多用 
久毛韋多知久母
此者片歌也
此時御病甚急
爾御歌曰
袁登賣能 
登許能辨爾 
和賀淤岐斯 
都流岐能多知 
曾能多知波夜
歌竟即崩
爾貢上驛使
於是坐倭后等
及御子等
諸下到而作御陵
即匍匐廻其地之那豆岐田(自那下三字以音)而
哭爲歌曰
那豆岐能多能
伊那賀良邇 
伊那賀良爾 
波比母登富呂布 
登許呂豆良
於是化八尋白智鳥(智字以音)
翔天而
向濱飛行
爾其后及御子等
於其小竹之苅杙
雖足★破  ★は足偏ぽい感じと非
忘其痛以哭追
此時歌曰
阿佐士怒波良 
許斯那豆牟 
◯良波由賀受 ◯は蘓の魚の下が大
阿斯用由久那
又入其
海鹽而那豆美(此三字以音)
行時歌曰
宇美賀由氣婆 
許斯那豆牟 
意富迦波良能 
宇惠具佐 
宇美賀波
伊佐用布
又飛居其礒之時歌曰
波麻都知登理 
波麻用波由迦受 
伊◯豆多布
是四歌者
皆歌其御葬也
故至今其歌者
歌天皇之大御葬也
故自其國
飛翔行
留河内國之志幾
故於其地作御陵鎭坐也
即號其御陵謂白鳥御陵也
然亦自其地更翔天
以飛行
凡此倭建命
平國廻行之時
久米直之祖名七拳脛恒爲膳夫以從仕奉也

 読み解きは来週に。                                                   続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P48の7行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2014年1月19日 (日)

倭建命 vs. 美夜受姫 453

 尾張国に帰(「還」)った倭建命は一目散に美夜受姫の「許(もと)」に。
 倭建命の帰還を待ちに待っていた美夜受姫は大喜びで大歓待。
 先ずは一献って事でお酌をしようとする美夜受姫。
 その一献を素直に受ければ良さそうな倭建命なのですが
 ベットインを急(せ)いたのか?彼女の姿態に目を。
 すると彼女のお着物の裾(「襴」)に紅色のドットプリント。
 ここで彼は情けなくも、いらつく思いを歌で表現。

比佐迦多能(ひさかたの)
阿米能迦具夜麻(あめのかぐやま=天の香具山)
斗迦麻邇(とかまに)
佐和多流久毘(さわたるくび)
比波煩曾(ひはぼそ=弱細)
多和夜賀比那袁(たわやがひなを=手弱腕<かいな>を)
麻迦牟登波(まかむとは=枕かむとは)
阿禮波須禮杼(あれはすれど=吾はすれど)
佐泥牟登波(さねむとは=さ寝むとは)
阿禮波意母閇杼(あれはおもへど=吾は思へど)
那賀祁勢流(ながけせる=汝が着せる)
意須比能須◯爾(おすひのすそに=襲の裾に)
都紀多知邇祁理(つきたちにけり=月立ちにけり)

 この訴えに美夜受姫も歌でお返し。

多迦比迦流(たかひかる=高光る)
比能美古(ひのみこ=日の御子)
夜須美斯志(やすみしし)
和賀意富岐美(わがおほきみ=我が大君)
阿良多麻能(あらたまの)
登斯賀岐布禮婆(としがきふれば=年が来経れば)
阿良多麻能(あらたまの)
都紀波岐閇由久(つきはきへゆく=月は消へゆく)
宇倍那宇倍那(うべなうべな=宜な諾な)
岐美麻知賀多爾(きみまちがたに=君待ち難に)
和賀祁勢流(わがけせる=吾が着せる)
意須比能須◯爾(おすひのすそに=襲の裾に)
都紀多多那牟余(つきたたなむよ=月経たなむよ)

 「月が立つ(出る)」 との倭建命の表現に
 「月を経る」 と絶妙な美夜受姫の切り返しはお美事。
 これに関しましては、今となっては昔々、
 「美夜受比売と日本武尊(倭建命)」 で触れました。
 いつの世も女性は賢く大らかで強いのです。            続く。

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2014年1月12日 (日)

阿豆麻波夜=吾妻⇒東 452

 明けましておめでとうございます。
 皆様におかれましては良い年を迎えられたましたでしょうか?
 今年も何卒、宜しくおん願い奉ります。

 それでは昨年からの続きです。
 倭建命は弟橘姫命の愛のお陰で無事房総半島に上陸を果たし
 更に北上。
 荒ぶる各地(東北地方の何処までかは不明)の豪族を悉く平定。
 (「悉言向荒夫琉蝦夷等 亦平和山河荒神等)」
 所期の目的を達し、踵(きびす)を変え一路大和へ。
 その途中、足柄の坂本に到り食事を取っている際、
 足柄山神の化身、「白鹿(はくろく)」 が出現。
 (はくしかと読んではいけません。それだと酒造メーカーに。)
 この白鹿は倭建命一行の足柄峠越えを拒んだのでしょう。
 すかさず倭建命は食べ残しの
 蒜(ひる=葱<ねぎ>・大蒜<にんにく>・野蒜<のびる>の総称)を
 白鹿に向けて投げつけると運良く白鹿の目に命中。
 足柄山神は敢え無く死に追いやられたと云う考えられない展開。
 「足柄神社」 の由緒ではこの白鹿は道先案内をした事になっています。
 遮る白鹿を退治し倭建命は登頂。
 彼の地で 「弟橘姫命」 を思い出したのでしょう。
 彼は東に向かい 「阿豆麻波夜(あずまはや=吾妻や⇒東)」 と。
 これが 「東=あずま」 の起源と。
 倭建命らは相模国を後にし、甲斐国の 「酒折宮」 に到着。
 そこで、余裕なのか徐(おもむろ)に歌を。
 
邇比婆理(にいはり=新治<常陸国>)
都久波袁須疑弖(つくばをすぎて=筑波を過ぎて) 
伊久用加泥都流(いくよかねつる=幾夜か寝つる)

 この質問に答えたお方は篝火を炊いていた(「御火燒」)老人。

迦賀那倍弖(かがなべて)
用邇波許許能用(よにはここのよ=夜には九夜)
比邇波登袁加袁(ひにはとをかを=日には十日)
                     
  この的確な返事に倭建命はこの老人を誉め東国造にしたとか。
 倭建命は更に甲斐国から科野国(信濃国)へ入りこの国のリーダー
 を説き伏せ平定。
 足早に倭建命は美夜受姫の住まう尾張国に。                    続く。

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