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2013年11月24日 (日)

旅ギフトは草那芸剣と巾着袋 449

 先週、倭建命の東国旅程を概観しました。
 今回からは本題に。
 西国遠征から日も置かず今度は東国制圧と云う景行帝の命。
 東国の東夷(あずまえびす)は西国の豪族より屈強だったのか
 景行帝は倭建命に軍団を副(そ)えます。
 (援軍は 「吉備臣等之祖」 で名は
  「御鉏友耳建日子」〈みすきともみみたけひこ〉)
 更に、「比比羅木之八尋矛ひひらぎ(柊・疼木)のやひろほこ」 をも
 倭建命に与えます。
 武器なのか馬印なのかは不明ですが景行帝の気遣い?
 東国に赴くにあたり
 今回も倭建命は叔母様のおられる 「伊勢大御神宮」
 に先ず向かいます。
 早速、伊勢神宮で戦勝祈願をし叔母様の元に。
 叔母様(倭姫命)に逢い、気丈な倭建命も気が緩んだのか?
 今の気持ちを吐露します。
 「父はわたくしに早くあの世に行きなさいとお思いです。」 と
 大泣きし、気を取り直し、叔母様(倭姫命)に暇(いとま)を乞う時
 叔母様(倭姫命)は倭建命に 「草那芸剣(くさなぎのつるぎ)」 を
 お与えになった。
 この草那芸剣は八俣大蛇の尻尾にあった剣。
 この剣を速須佐之男命はお姉さんの天照大御神にプレゼント。
 更に、天照大御神は高天原から豊葦原瑞穂国へ赴く邇邇芸命に。
 そして、驚く事に、この草那芸剣は倭姫命の手元にあったのです。
 草那芸剣の登場の経緯(いきさつ)は
 草薙剣(大刀)を発見
 三種の神器と母性遺伝 でご確認下さい。
 邇邇芸命からどの様な経路で倭姫命に渡ったのでしょう。
 とっても深い意味合いがあると思うのですが
 ここでは触れませんこと。 後々のお楽しみっ。
 更に叔母様(倭姫命)はもう一つの遠征旅ギフト。
 その贈り物は 巾着袋「(囊)」。
 そして彼女は倭建命に
 「もし困った時はこの袋の口をお開けなさい」 と
 お優しい副え言葉。
 さて、巾着袋の中身は一体なに?
 iPhone 5s/5c、LACQUER ROUGEでないことは確かなことよ。
                                                                              続く。

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2013年11月17日 (日)

倭建命 東国旅程考 448

 女装・姑息手段までをも使い、
 西国・山陰の荒振る豪族達を死に追いやった倭建命。
 いかな倭建命でも暫し憩いの時を過ごそうと思っていた所、
 景行帝は彼に休息を与えず今度は
 東国(「東方十二道」)の
 豪族(「荒夫琉神」)を平定せよとのご命令。
 この 「東方十二道」 表現は二度目の出現。
 前回は崇神帝のご子息、建沼河別命東国平定の際に登場。
 但し、具体的に地名は記載無し。
 今回のこの時代?、東国として固有名詞で登場する国・地名は
 「相武國」  相模(「佐賀牟」)国
 「焼津」   駿河国の地名(かの時代、焼津は相武国に)
 「走水」      相模国の地名 走水神社 由緒 現在の横須賀とか
 「足柄」      相模国の地名
 「甲斐」     甲斐国
  「酒折」      甲斐国の地名 酒折宮
 「邇比婆理」 (にいはり)新治郡=常陸国の一部
 「筑波」      常陸国の地名 筑波(「都久波」)
  「科野國」    信濃国
 以上が紹介されています。
 大和国から叔母様のおられる伊勢国へそこから尾張国を経て
 海岸沿いに「三河国」~「遠江国」~「駿河国」の焼津へ。
 更に歩みを進め、状況からして
 「相模国」 の走水から舟で「上・下総国」に上陸したと思われます。
 但し、ここの国・地名は出現せず。この地点から北へ向かい
 「悉言向荒夫琉蝦夷等 亦平和山河荒神等而」
 荒振る(「荒夫琉」)蝦夷達と山河荒神達を平定したと記述されて
 ますが、何処まで足を伸ばしたのか全く記載されたいません。
 突如、何処かで、ユーターン(「還上」)し「足柄」(相模国)へ帰還。
 そこから多分足柄山に登り(「登立其坂」)山頂に立ち、
 倭建命は荒海を命と引き替えに静めてくれた妻を思い出し
 あずまはや(「阿豆麻波夜」) と詠嘆。
 これが有名な 「吾妻(あずま)=わが妻」 の由来に。
 更に山越えし甲斐国の酒折に到着。
 そこで新治郡の筑波から幾日過ぎたとの回想から常陸国までは
 遠征した事実が判明。果たして陸奥国へ足を踏み入れたのか?
 そこから信濃国に入り無事尾張国へ戻ったと。(「還来尾張国」)
 これも多分、飛騨国、美濃国経由かと・・・・・。
 こんな感じの旅程と思われる次第。
 いやはや何とも覚束ない始末に。                          続く。

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2013年11月10日 (日)

倭建命 東国遠征へ 447

 西国平定を終え帰還した倭建命に新たな景行帝からのミッション。
 東国平定の命を授けられます。
 ここの東国遠征へは古事記によく取り上げられる箇所の一つ。
 先ずはそこの古事記原文です。

爾天皇亦頻詔倭建命
言向和平東方十二道之荒夫琉神
及摩都樓波奴人等而
副吉備臣等之祖
名御鉏友耳建日子而
遣之時
給比比羅木之八尋矛(比比羅三字以音)
故受命
罷行之時
參入伊勢大御神宮
拜神朝廷
即白其姨倭比賣命者
天皇既所以思吾死乎
何擊遣西方之惡人等而
返參上來之間
未經幾時
不賜軍衆
今更平遣東方十二道之惡人等
因此思惟
猶所思看吾既死焉
患泣罷時
倭比賣命
賜草那藝劒(那藝二字以音)
亦賜御囊而
詔若有急事
解茲囊口
故到尾張國
入坐尾張國造之祖
美夜受比賣之家
乃雖思將婚
亦思還上之時將婚
期定而
幸于東國
悉言向和平山河荒神
及不伏人等
故爾到相武國之時
其國造詐白
於此野中有大沼
住是沼中之神
甚道速振神也
於是看行其神
入坐其野
爾其國造
火著其野
故知見欺而
解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者
火打有其裏
於是先以其御刀苅撥草
以其火打而
打出火
著向火而
燒退
還出
皆切滅其國造等
即著火燒
故其地者
於今謂燒津也
自其入幸
渡走水海之時
其渡神興浪
廻舩
不得進渡
爾其后名弟橘比賣命白之
妾易御子而入海中
御子者
所遣之政遂應覆奏
將入海時
以菅疊八重
皮疊八重
絁疊八重
敷于波上而
下坐其上
於是其暴浪自伏
御舩得進
爾其后歌曰
佐泥佐斯 
佐賀牟能袁怒邇 
毛由流肥能 
本那迦邇多知弖 
斗比斯岐美波母
故七日之後
其后御櫛
依于海邊
乃取其櫛
作御陵而
治置也
自其入幸
悉言向荒夫琉蝦夷等
亦平和山河荒神等而
還上幸時
到足柄之坂本
於食御粮處
其坂神
化白鹿而來立
爾即以其咋遺之蒜片端
待打者中其目
乃打殺也
故登立其坂
三歎詔云阿豆麻波夜(自阿下五字以音也)
故號其國謂阿豆麻也
即自其國越
出甲斐
坐酒折宮之時
歌曰
邇比婆理 
都久波袁須疑弖 
伊久用加泥都流
爾其御火燒之老人續御歌以歌曰
迦賀那倍弖 
用邇波許許能用 
比邇波登袁加袁
是以譽其老人
即給東國造也
自其國越科野國
乃言向科野之坂神而
還來尾張國
入坐先日所期美夜受比賣之許
於是獻大御食之時
其美夜受比賣
捧大御酒盞以獻
爾美夜受比賣
其於意須比之襴(意須比三字以音)
著月經
故見其月經
御歌曰
比佐迦多能 
阿米能迦具夜麻 
斗迦麻邇 
佐和多流久毘 
比波煩曾 
多和夜賀比那袁 
麻迦牟登波 
阿禮波須禮杼 
佐泥牟登波 
阿禮波意母閇杼 
那賀祁勢流 
意須比能須◯爾 ◯は 蘓 魚の下が火
都紀多知邇祁理
爾美夜受比賣
答御歌曰
多迦比迦流 
比能美古 
夜須美斯志 
和賀意富岐美
阿良多麻能 
登斯賀岐布禮婆 
阿良多麻能
都紀波岐閇由久 
宇倍那宇倍那 
岐美麻知賀多爾 
和賀祁勢流 
意須比能須◯爾 
都紀多多那牟余

 読み解きは来週に。                                        続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P44の10行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2013年11月 3日 (日)

倭建命 出雲建へ姑息な騙し 446

 倭建命は目的を達し、帰途に。
 その途中、山神・河神・穴戸(あなと=長門の古名)神、
 「言向」(ことむけ=言葉で従わせる)
 「和」(やわ〈す〉)=穏やかにする)
 荒振る神々を武力でなく言葉で説き伏せた。
 どの様な言葉で懐柔したかは語ってくれず不明で残念。
 この事から帰路は陸路だった感じ。
 出雲国に足を向ける為、長門国から山陰道に。
 出雲国のリーダー(「出雲建」)も
 景行帝に従わないので抹殺するんだとか。
 但し、この件は景行帝に依頼されていない筈。
 これって倭建命の独断だったのでしょうか?
 倭建命は出雲国に着くや否や出雲建に会い
 手練手管で信頼を得る行為に及ぶます。
 古事記原文では 「到即結友」 と記されていますので
 短時間で倭建命は出雲建にお近づきになった感じ。
 しかし、こちらも、どの様な手段を用(もち)いたは不明。
 これって、出雲建の他国人への 「おもてなし」 なのでは?
 倭建命はこれを良い事に出雲建へN姑息な騙し抹殺作戦に。
 その作戦は 「詐刀」 造り。
 何やら子供騙しの木刀を作り、
 しらじらしくも腰に下げていた(「為御佩」)との事。
 倭建命は出雲建と斐伊川で水浴び(「共沐肥河」)を企図。
 出雲建は倭建命の申し出を深い絆を結びたく快諾。
 倭建命は内心ほくそ笑み着々と作戦決行。
 彼は出雲建よりも早く川から上がり、出雲建の刀を腰に差す行為。
 そして、徐(おもむ)に未だ水浴び中の出雲建に
 「刀を取り替えましょう(『爲易刀』)」 との提案。
 出雲建は特段疑問も持たずで 「おもてなし」 了承。
 倭建命は追い打ちを掛ける様に川から上がり 「詐刀」 を装着した
 出雲建に刀合わせを所望。
 快く応じる出雲建のその後は火を見るよりも明らか。
 心優しく、他を疑わない、日本人原初思想をお持ちの出雲建は
 倭建命の姑息な振る舞いに命を絶たれます。
 相手を思いやるこの 「日本文化」 を踏みにじる輩には叛旗を!
 この対処策を講じない限り単なる 「お人好し」。
 今日はたまさか 「文化の日」。
 力強く(建)・凛としたお人好しを創造する良き日に・・・・・。
 この後、古事記の展開は
 倭建命の凱歌になるのですが気分が宜しくないので省略。
 そして、倭建命は景行帝の元に帰還、ご報告。          続く。

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