倭建命 東国旅程考 448
女装・姑息手段までをも使い、
西国・山陰の荒振る豪族達を死に追いやった倭建命。
いかな倭建命でも暫し憩いの時を過ごそうと思っていた所、
景行帝は彼に休息を与えず今度は
東国(「東方十二道」)の
豪族(「荒夫琉神」)を平定せよとのご命令。
この 「東方十二道」 表現は二度目の出現。
前回は崇神帝のご子息、建沼河別命東国平定の際に登場。
但し、具体的に地名は記載無し。
今回のこの時代?、東国として固有名詞で登場する国・地名は
「相武國」 相模(「佐賀牟」)国
「焼津」 駿河国の地名(かの時代、焼津は相武国に)
「走水」 相模国の地名 走水神社 由緒 現在の横須賀とか
「足柄」 相模国の地名
「甲斐」 甲斐国
「酒折」 甲斐国の地名 酒折宮
「邇比婆理」 (にいはり)新治郡=常陸国の一部
「筑波」 常陸国の地名 筑波(「都久波」)
「科野國」 信濃国
以上が紹介されています。
大和国から叔母様のおられる伊勢国へそこから尾張国を経て
海岸沿いに「三河国」~「遠江国」~「駿河国」の焼津へ。
更に歩みを進め、状況からして
「相模国」 の走水から舟で「上・下総国」に上陸したと思われます。
但し、ここの国・地名は出現せず。この地点から北へ向かい
「悉言向荒夫琉蝦夷等 亦平和山河荒神等而」
荒振る(「荒夫琉」)蝦夷達と山河荒神達を平定したと記述されて
ますが、何処まで足を伸ばしたのか全く記載されたいません。
突如、何処かで、ユーターン(「還上」)し「足柄」(相模国)へ帰還。
そこから多分足柄山に登り(「登立其坂」)山頂に立ち、
倭建命は荒海を命と引き替えに静めてくれた妻を思い出し
あずまはや(「阿豆麻波夜」) と詠嘆。
これが有名な 「吾妻(あずま)=わが妻」 の由来に。
更に山越えし甲斐国の酒折に到着。
そこで新治郡の筑波から幾日過ぎたとの回想から常陸国までは
遠征した事実が判明。果たして陸奥国へ足を踏み入れたのか?
そこから信濃国に入り無事尾張国へ戻ったと。(「還来尾張国」)
これも多分、飛騨国、美濃国経由かと・・・・・。
こんな感じの旅程と思われる次第。
いやはや何とも覚束ない始末に。 続く。
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