« 2013年8月 | トップページ | 2013年10月 »

2013年9月29日 (日)

容姿麗美嬢の争奪戦 441

 景行帝の奥様・お子様達の子細は前回の古事記原文で。
 どの時代・いつの世も変わりなく?殿方は
 美女(容姿麗美嬢)にとても弱く、放って置きません。
 沢山のお子様を作られた景行帝、女性にはさぞかし・・・・・。
 ある時、三野(美濃)国造の祖である神大根王のお嬢さん達、
 兄姫・弟姫(えひめ・おとひめ)が中々の美女との情報をゲット。
 早速、息子の大碓命に彼女らを連れてくるよう命じます。
 大碓命は父の要求に応え、美濃国に赴きます。
 美女姉妹に会った大碓命は彼女らに、一目惚れ。
 即、彼は彼女らと恋に陥る事態に。
 美女二人共とはいささか我が儘勝手と思いますが・・・・・。
 彼女らを父に娶す事をやむなく中断。
 只、父の命に背く事に。
 そこで一計、彼女らに劣りますがそこそこ?の姉妹を探索、
 彼女らを父、景行帝に詐(いつわ)り届ける事に。
 女性とは百戦錬磨の景行帝、
 大碓命の謀(はかりごと)はバレバレっ。
 しかし、そこは人生(女性)経験が長い景行帝、
 見て見ぬ振りの大人対応?
 かと思いきや彼女らを長き事召さず、娶らず、
 蛇?の生殺しにする始末。
 決して、思慮深い行為とは思われません。
 傀儡の彼女らは 「どーゆー事?」 に。
 翻って鑑みると、この大碓命は景行帝に比し
 「権力・金力」 劣る小セレブ男(おのこ)。
 美女兄姫・弟姫ともに彼と結婚しお子さんをもうけている状況から
 彼は中々のイケメンだったと云えるのでは・・・・・。
 又、景行帝に御代に
 田部・・・帝支配地専従農民集団
 東之淡水門・・・東国、安房(淡)の港(水門)〈市場〉
 膳之大伴部・・・帝専属料理人集団
 〈膳(かしわ=柏)の葉が食器代用から。お膳(ぜん)は名残〉
 倭屯家(やまとみやけ)・・・帝直轄領地〈屯倉〉
 作坂手池 竹植其堤・・・(坂手)池・堤の造築
 順序は倭屯家 ⇒ 田部 ⇒ 膳之大伴部の筈。
 交易市場があずま(東)夷の住まう地区までも広がった事実。
 更に、潅漑対策を考える余裕ができたとか?                  続く。

| | コメント (0)

2013年9月22日 (日)

小碓命(倭建命)の登場 440

 ここからは景行帝の御代に。
 超メジャーなお方、小碓命(後の倭建命〈日本武尊〉)の登場。
 先ずはそちらの古事記原文を。
大帶日子淤斯呂和氣天皇〈景行帝〉
纒向之日代宮
治天下也
此天皇
娶吉備臣等之祖
若建吉備津日子之女
名針間之伊那毘能大郎女
生御子
櫛角別王
次大碓命
小碓命〈倭建命〉
亦名倭男具那命(具那二字以音)
次倭根子命
次神櫛王(五柱)
又娶八尺入日子命之女
八坂之入日賣命
生御子
若帶日子命〈成務帝〉
次五百木之入日子命
次押別命
次五百木之入日賣命
又妾之子
豐戸別王
次沼代郎女
又妾之子
沼名木郎女
次香余理比賣命
次若木之入日子王
次吉備之兄日子王
次高木比賣命
次弟比賣命
又娶日向之美波迦斯毘賣
生御子
豐國別王
又娶伊那毘能大郎女之弟
伊那毘能若郎女(自伊下四字以音)
生御子
眞若王
次日子人之大兄王
又娶倭建命之曾孫
名須賣伊呂大中日子王(自須至呂四字以音)之女
訶具漏比賣
生御子
大枝王
凡此大帶日子天皇之御子等
所録廿一王
不入記五十九王
并八十王之中
若帶日子命與倭建命
亦五百木之入日子命
此三王負太子之名
自其餘七十七王者
悉別賜國國之國造
亦和氣及稻置縣主也
故若帶日子命者
治天下也
小碓命者
平東西之荒神
及不伏人等也
次櫛角別王者(茨田下連等之祖)
次大碓命者(守君大田君嶋田君之祖)
次神櫛王者(木國之酒部阿比古 宇陀酒部之祖)
次豐國別王者(日向國造之祖)

於是天皇
聞看定三野國造之祖
神大根王之女
名兄比賣弟比賣
二孃子
其容姿麗美而
遣其御子大碓命
以喚上
故其所遣大碓命
勿召上而
即己自婚其二孃子
更求他女人
詐名其孃女而貢上
於是天皇知其他女
恒令經長眼
亦勿婚而惚也
故其大碓命
娶兄比賣生子
押黑之兄日子王(此者三野之宇泥須和氣之祖)
亦娶弟比賣生子
押黑弟日子王(此者牟宜都君等之祖)
此之御世定田部
又定東之淡水門
又定膳之大伴部
又定倭屯家
又作坂手池即竹植其堤也

天皇詔小碓命
何汝兄於朝夕之大御食不參出來
專汝泥疑教覺(泥疑二字以音下效此)如此詔以後
至于五日
猶不參出
爾天皇問賜小碓命
何汝兄久不參出
若有未誨乎
答白既爲泥疑也
又詔如何泥疑之
答白
朝署入廁之時
待捕搤批而
引闕其枝裹薦投棄

 読み解きは来週に。                                         続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P39の6行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

| | コメント (0)

2013年9月15日 (日)

登岐士玖能迦玖能木実 439

 そのメルヘンチック物語は 「常世国より持ち帰る橘(たちばな)」。
 垂仁帝は 「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」 を
 所望します。
 後先になりますがこの登岐士玖能迦玖能木実は 「橘」 と。
 「右近の橘、左近の桜」 の橘(たちばな)です。
 日本書紀では 「非時香菓」 と表記されています。
 「一年中香りが漂う果実」 って意味合いになると思われます。
 とすると、これは果実をもぎ取らない限り2年程落果しない
 「橙(代々=回青橙)」 の事を云ったのでしょう。
 橙の実は黄色みの強い緑色から橙色になり
 又、緑色への繰り返し。
 垂仁帝が欲しがるのですからこの橘(橙)はかの時代?
 とても貴重ものだったに違いありません。
 又、橙は飛鳥・奈良時代では阿部橘と。
 橘をこよなく愛した阿部=阿閇皇女 (後の元明帝<661~721>)
 から命名されたものと考えます。
 彼女の父は天智帝で持統帝とは従姉妹関係。
 そしてその在りかは 「常世国(とこよのくに)」 とか。
 常世国は以前 「奇妙な少名毘古那神」 で出現。
 この際、常世国を
1 遥か遠い海の彼方に有るのではないかと想像した国。
2 道教ライクでは不老不死の国。
3 死して赴く国。黄泉(よみ)の国。
 と考えていました。
 しかし、常世国に橘(橙)が生育している訳ですから実在の国。
 現在、橙の生産量№1は和歌山県(紀伊国)田辺市
 太陽が燦々と当たる海岸沿いが橙生産に適しているとの事。
 とすると論理的、常世国は木国(紀伊国)に。
 只、この推論ではメルヘンの 「メ」 の字もなく
 「メッ」 って叱られそう。
 常世国から橘(橙)を持ち帰る役目を仰せつかった方は
 三宅連等の祖、多遅摩毛理(たぢまもり)
 彼は垂仁帝の命を受け
 遥か遠い海の彼方に有り、
 不老不死の国とも云われる常世国に
 万難を排し、やっとの事で辿り着き、
 登岐士玖能迦玖能木実を手に入れ、
 大和に帰国しますが時既に遅く(かなりの時間経過?)
 垂仁帝は崩御されていました。
 多遅摩毛理は途方に暮れ、
 遠路遙々(はるばる)持ち帰った(枝葉付き)橘(橙)の半分を
 後妻である比婆須姫命(ひばすひめ)に差し上げ、
 残る半分は垂仁帝の 「御陵戸」 に供え、もぎ取った木実を捧げ
 「やっとのことで橘(橙)を持ち帰りました」 と
 慟哭しながらご報告し終わるや否や
 帝の不在とお仕事疲れが 「ドット」 出てなくなったとの事。
 又、橘(橙)をプレゼントされた比婆須姫命が亡くなった際、
 「石祝作(いわきつくり)」 と 「土師部(はにしべ)」 が
 制定されたとの由。                                                   続く。

| | コメント (0)

2013年9月 8日 (日)

昔の名前で 醜女物語2 438

 垂仁帝の意に反し若くして黄泉国へ旅立った沙本姫命。
 垂仁帝が彼女が旅立つ前に相談した一番情けない案件、
 「後妻を誰にしたらよいか」 へのかいがいしい彼女の回答。
 旦波(丹波)国の美知能宇斯王(みちのうしのみこ)のお嬢さん達。
 早速、彼は住まいに彼女らを召します。
 何と総勢4名、お名前は (お歳順)
 比婆須姫命・弟姫命・歌凝(うたごり)姫命・円野(まとの)姫命。
 只、比婆須姫・弟姫は見目麗しかったのですが、
 運悪く、歌凝姫・円野姫は母親違いだったのか?
 「甚凶醜」(甚だみにくい)=お顔立ち・姿態が個性的だったので
 お里(丹波国)にお帰り願う事に。
 女性からしたらこれってとても許せない事っ、でもないか?
 現代でしたら 「ポチャカワ」 とか異色動物系顔TVタレントで
 もて囃されたかも知れない・・・・・。
 (この時代?ヤセギスは凶醜とされていたのですよ!)
 古事記でこのパターンは二度目の登場。
 一度目は 「木花之佐久夜姫と石長姫」 での「醜女物語」。
 昨今、昔の名前で再登場TVドラマ風感じで 「醜女物語2」 に。
 それはさて置き、
 最年少のお嬢さん、円野姫は幼気で繊細過ぎたのか
 いたく心を痛める始末。
 彼女はこんな理由でお国に帰ったら隣、近所の皆さんに
 合わす顔がないと思い、自ら命を絶ってしまうのです。
 ほんと、罪な垂仁帝とお思いになりません事?

 (可哀相で中略。 決して同類相憐れむでございません!!!)

 そして唐突にも (いつもの <古> 事 <記> ですが)
 垂仁帝物語のラスト飾る奇想天外、メルヘンチックなお話しに。  
                                    続く。

| | コメント (0)

2013年9月 1日 (日)

多遅摩毛理 橘伝説 437

 いよいよ垂仁帝の最終章へ。
 先ずはそちらの古事記原文を。

又隨其后之白
喚上美知能宇斯王之女等
比婆須比賣命
次弟比賣命
次歌凝比賣命
次圓野比賣命并四柱
然留比婆須比賣命弟比賣命二柱而
其弟王二柱者
因甚凶醜返送本土
於是圓野比賣
慚言同兄弟之中
以姿醜
被還之事
聞於隣里
是甚慚而
到山代國之相樂時
取懸樹枝而
欲死
故號其地謂懸木
今云相樂
又到弟國之時
遂墮峻淵而死
故號其地謂墮國
今云弟國也
又天皇以三宅連等之祖
名多遲摩毛理遣常世國
令求登岐士玖能迦玖能木實(自登下八字以音)
故多遲摩毛理遂到其國
採其木實
以縵八縵矛八矛將來之間
天皇既崩爾多遲摩毛理
分縵四縵矛四矛
獻于大后
以縵四縵矛四矛
獻置天皇之御陵戸而
擎其木實
叫哭以白
常世國之登岐士玖能迦玖能木實持參上侍
遂叫哭死也其登岐士玖能迦玖能木實者
是今橘者也
此天皇御年
壹佰伍拾參歳
御陵在菅原之御立野中也
又其大后比婆須比賣命之時
定石祝作
又定土師部
此后者
葬狹木之寺間陵也

 読み解きは来週に。                                         続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P37の14行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

| | コメント (0)

« 2013年8月 | トップページ | 2013年10月 »