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2013年6月30日 (日)

垂仁帝のご子息達と身長表記 429

 垂仁帝(伊久米伊理彦伊佐知命)は師木玉垣宮にお住まい。
 父、崇神帝のお住まいは師木水垣宮だからお近くだったやも。
 彼は沢山の女性を愛しました。
 
A 佐波遅姫命(=沙本姫命)(沙本彦命之妹)からは
男 品牟都和気命
 
B 氷羽州姫命(旦波〈丹波〉彦多多須美知宇斯王之女)
男 印色之入彦命
男 大帯彦淤斯呂和気命(景行帝)
男 大中津彦命
女 倭姫命(拝祭伊勢大神宮)
男 若木入彦命

C 沼羽田之入姫命(其氷羽州姫命之弟)
男 沼帯別命
男 伊賀帯彦命

D 阿邪美能伊理姫命
男 伊許婆夜和気命
女 阿邪美都姫命

F 迦具夜姫命(かぐやひめ)(大筒木垂根王之女) 
男 袁邪辨王

G 苅羽田刀辨(山代大国之淵之女)
男 落別王
男 五十日帯彦王
男 伊登志別王

H 苅羽田刀辨(山代大国之淵之女弟)
男 石衝別王
女 石衝姫命(=布多遅能伊理姫命)
 以上、8人の奥様と16名(男13・女3)のお子様に恵まれたのです。

 ここで古事記に新しい表記が出現。
 次の帝、大帯彦淤斯呂和気命(景行帝)の身長と向う脛の長さが。
 「御身長 一丈二寸 御脛長 四尺一寸也」
  一丈=十尺=百寸。
 但し、この一丈は昭和33年(1958)迄使用されていた
 尺貫法の3.03m ではありません。
 幾ら何でも身長3mはないでしょう?
 又、ここでは 「大きい」 と表現したかった訳ではないと考えます。
 この 「丈」 は 「身の丈(たけ)」 の丈。
 「日本人の平均身長・平均体重の推移」 に依りますと
 古墳時代で大凡、平均163㎝であったとされています。
 (但し、真偽の程は不明)
 しかしながら、もし身長(身の丈)を163㎝と規定すると
 景行帝の身長は163×1.02≒166㎝になります。
 平均身長よりやや高めと表現したかったのでしょう。
 又、向う脛(ずね)の長さがわざわざ表記されているのですから
 かの時代、とてもこの長さは重要だったやも知れません。
 彼の向う脛の長さ (上からの推論) は約67㎝に。
 向う脛は膝(ひざ)からくるぶし迄の長さ。
 もしこのバランスが正しいとすると
 景行帝はとても足の長いナイスな男性だったやも?       
 素敵な男性の登場ですが、それに合わせ
 5人のナイスガイを袖にした 「迦具夜姫命」 も見参です。
 云い寄る条件の良い男性のラヴコールを受けず
 お仕事に邁進する現代 「女性の鏡」=かぐや姫。
 彼女らがデフレ日本を駆逐するのか・・・・・。   続く。

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2013年6月23日 (日)

垂仁帝の御代物語 428

 崇神帝のご子息、伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁帝)の御代
 のお話しになります。
 先ずは古事記原文を。

伊久米伊理毘古伊佐知命
坐師木玉垣宮
治天下也
此天皇
娶沙本毘古命之妹
佐波遲比賣命
生御子
品牟都和氣命(一柱)
又娶旦波比古多多須美知宇斯王之女
氷羽州比賣命
生御子
印色之入日子命(印色二字以音)
次大帶日子淤斯呂和氣命(自淤至氣五字以音)
次大中津日子命
次倭比賣命
次若木入日子命(五柱)
又娶其氷羽州比賣命之弟
沼羽田之入毘賣命
生御子
沼帶別命
次伊賀帶日子命(二柱)
又娶其沼羽田之入日賣命之弟
阿邪美能伊理毘賣命(此女王名以音)
生御子
伊許婆夜和氣命
次阿邪美都比賣命(二柱)(此二王名以音)
又娶大筒木垂根王之女
迦具夜比賣命
生御子
袁邪辨王(一柱)
又娶山代大國之淵之女
苅羽田刀辨(此二字以音)
生御子
落別王
次五十日帶日子王
次伊登志別王(伊登志三字以音)
又娶其大國之淵之女
弟苅羽田刀辨
生御子
石衝別王
次石衝毘賣命
亦名布多遲能伊理毘賣命(二柱)
凡此天皇之御子等
十六王(男王十三 女王三)
故大帶日子淤斯呂和氣命者
治天下也(御身長 一丈二寸 御脛長 四尺一寸也)
次印色入日子命者
作血沼池
又作狹山池
又作日下之高津池
又坐鳥取之河上宮
令作横刀壹仟口
是奉納石上神宮
即坐其宮
定河上部也
次大中津日子命者
(山邊之別 三枝之別 稻木之別 阿太之別 尾張國之三野別
吉備之石无別 許呂母之別 高巣鹿之別 飛鳥君 牟禮之別等祖也)
次倭比賣命者(拜祭伊勢大神宮也)
次伊許婆夜和氣王者(沙本穴太部之別祖也)
次阿邪美都比賣命者(嫁稻瀬毘古王)
次落別王者(小月之山君 三川之衣君 之祖也)
次五十日帶日子王者(春日山君 高志池君 春日部君之祖)
次伊登志和氣王者(因無子而爲子代定伊登志部)
次石衝別王者(羽咋君 三尾君之祖)
次布多遲能伊理毘賣命者(爲倭建命之后)

 読み解きは来週に。                                         続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書の古事記中下巻P29の8行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2013年6月16日 (日)

租税(調)の徴用と灌漑 427

 相津(会津)を北限として全国津々浦々の平定に成功した崇神帝。
 (前回も触れました様に山<東山道>は手付かず?)
 この事を以て彼は初めて
 男性には 「弓端(弭)之調(ゆはずのみつぎ)」、
 女性には 「手末之調(たなすえのみつぎ)」 を課したとの事。
 お爺さんは山で柴刈り、
 お婆さんは川でお洗濯風な感を否めませんが
 男は弓矢で射た鳥獣、
 女は手織り織物 (反物) が租税(「調」)として採用された事に。
 鳥獣の日保ちが気になる処ですが
 ハンドメイドの織物は租税(調)として十二分。
 何処かの時点で機(はた)織り技術が倭国に伝来していた事実。
 素材は 「絹」 と 「麻」・「綿」 の手織り生地と考えられますが
 「調」 として所望した崇神帝ですから高級素材、絹織物の筈。
 尚、天然素材、絹・麻・綿に関しましては

 「絹」ファッション(fashion)Ⅰ~
 「麻」ファッション(fashion)Ⅰ~
 「綿」ファッション(fashion)Ⅰ~ でご確認下さい。
 
 「調」=つき、その尊敬語で御調(みつぎ)。
 日本史で習った律令制での税制度、「租庸調」 の調。
 動詞のみつぐは「貢ぐ」・「見継ぐ」。
 貢ぐは力ある人が、か弱い人に衣食・金品を贈る事。
 見継ぐは見続ける・見届ける事。
 要は力量・余裕・下心を保持する方が相手に恵み・施し・贈る事。
 それが、何処かでフュージョン、逆になり、
 力量ある方が、
 か弱き方々からものを納めさせる構造改革を断行。
 これが 「調」 =租税制度の始まり。
 現在に置いてもこの構造は続行中なのです。
 この租税制度を確立した事により
 崇神帝は 「初国之御真木天皇」 と命名されたと。
 又、崇神帝の世に 「依網池」・「軽之酒折池」 を築造。
 この池は庭園に造作する風情ある 「お池」 ではなく
 「水」 を確保する潅漑用水の 「溜め池」 と考えると
 既に、かの時代、農耕が行われていた事になるのです。
 只、古事記には 「作」 ったと記載されているのみで
 何の為には記述されていません。
 まさか暑い夏の 「水浴び・避暑」 用とは思えませんが・・・・・。
                                                                 続く。

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2013年6月 9日 (日)

崇神帝 相津(会津)が日本の北限 426

 「和訶羅河(わからがわ)」 での合戦に勝利した
 大彦命と日子国夫玖命軍団は崇神帝に報告する為いったん、
 大和に凱旋。
 時をおかず、大彦命は
 当初の目的地、北陸道(「高志〈越〉国」)へ向かう事に。
 山城(「山代」)国はクリアー済みですので
 近江(「淡海」)、「若狭」、
 越前・加賀・能登・越中・越後(「高志」)国へと北上したのでしょう。
 一方、大彦命の息子は
 伊賀・伊勢・志摩(「嶋」)、「尾張」、<三河>、遠江、
 <駿河>(「焼津」)、<伊豆>、「甲斐」、相模・武蔵(「相武」)
 <安房>・<上総>・<下総>(総)、<常陸>国へと北上した筈。
 そして両者は打ち合わせた様に今現在未だ大震災の傷を癒せない
 福島県の 「相津(会津)」 で遭遇したと記載されています。
 この「あいづ」、オヤジギャグに勝とも劣らないレベルの表現では?
 更に、不可思議なのが東山道、
 美濃(「三野」)、<飛騨>、信濃(「科野」)、下野・上野(毛野)
 の国々は全く手つかずのままなのです。
 中抜け制覇ですが日本海、及び、太平洋側に面した各地は
 押さえたのでしょう。
 もう一つ、「相津(会津)」 以北の蝦夷地<出羽>・<陸奥>と北海道
 には触れず仕舞い。
 この時代?日本列島の北限は会津迄だった事に。
 蝦夷地には 「山本(後の新島)八重」 さん張りの
 頑固一徹・豪放磊落を標榜する人々が暮らしておられたのでしょう?
 思わず、「ジェ・ジェ・ジェ」 と驚き表現を。
 再開した父子軍団は北陸道、或いは、東海道のどちらかを選択し
 一路大和へ、否、各々平定した北陸・東海道を再確認しながら
 別々に崇神帝の住まう大和を目指したのかも。
 やがてお二人は大和に帰陣、崇神帝に制圧のご報告。
 しかして、古事記の記述は次の様に展開します。
 こうして、「天下太平」になり、「人民富栄」 となったと。
 と云う事は大和より南西の
 山陰道・山陽道・南海道・西海道諸国は既に崇神帝の為政下に
 置かれていた事になるのです。                              続く。

  * 国名の「」は古事記表記

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2013年6月 2日 (日)

乙女腰裳の時代変遷 425

 伊杼美 ⇒ 伊豆美地区で勝利をおさめた大彦命は大和に引き返し
 崇神帝に報告、その足で初期の目的である北陸道へ遠征。
 ところで、前回触れなかった腰裳を纏った、うら若き女性(「少女」)
 の件にお約束通り戻ります、
 腰裳は腰に着けた 「裳」 でその時代の服アイテムの一つ。
 只、この 「その時代が曲者」。
 先ず、これまでの古事記で出現した 「裳」 表記を抽出してみます。
 とは云うものの、今回登場の 「服腰裳少女」 以外に
 一箇所しかないのです。
 その箇所は 「天照大御神の甦生」 で紹介しました
 「裳緒忍垂於番登也」。
 こちらの状況は 「天宇受賣命のタップダンスショー」 をご覧あれ。
 この天宇受賣命が着(つ)けていた 「裳」 はボトム(下衣)。
 基本的には現代のスカート風アイテムと考えられます。
 そのスカート風なものは 「紐」 で腰に固定する仕様だった筈。
 古事記の時代設定では 「この裳」 時代は紀元前の遠ーい昔。
 それから時代が下り崇神帝の 「腰裳」 時代。
 古事記執筆者はどの様なボトムをイメージしていたのでしょう?
 現存するものでこれらを確認できるのは 「埴輪」。
 「埴輪 盛装(着飾った)の女子」 (国立博物館所蔵)
 「埴輪 腰かける巫女」 (国立博物館所蔵)
 両方とも古墳時代・6世紀と説明・注釈されています。
 盛装の女子はミディフレアースカート、
 腰かける巫女はワンピー+レギンス。
 「腰かけ巫女」 は3年前のカジュアルファッションで現代風?
 それはさておき、
 「盛装女子」 のこのボトムが 「裳」 になるのでしょう。
 次に崇神帝時代の腰裳もこんな感じだったなら
 古事記原作者は腰裳よりも 「服腰裳少女」 から少女=乙女に
 ウエイトを置いたのかも。
 うら若き乙女が高貴な大人が着ける 「裳」 を着用していた事を
 表現したかったのではないでしょうか。
 因みに、古事記と同時代作成と措定された「高松塚古墳」 の壁画
 (国営 飛鳥歴史公園 高松塚古墳 石室・壁画)
 こちらの裳は
 補色ストライプのフレアーロングスカートで描かれています。
 こちらの女性達はやや年増飛鳥美人の皆さん。
 これらの時代からスカート丈は年齢基準???に。
 否、生理年齢がお若くないとミニスカートは綺麗に見えない?
 更に時代が下り、世も平安な時代の裳
 ボトムのオシャレアップアイテムに変わってしまうのです。
                                                                続く。

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