租税(調)の徴用と灌漑 427
相津(会津)を北限として全国津々浦々の平定に成功した崇神帝。
(前回も触れました様に山<東山道>は手付かず?)
この事を以て彼は初めて
男性には 「弓端(弭)之調(ゆはずのみつぎ)」、
女性には 「手末之調(たなすえのみつぎ)」 を課したとの事。
お爺さんは山で柴刈り、
お婆さんは川でお洗濯風な感を否めませんが
男は弓矢で射た鳥獣、
女は手織り織物 (反物) が租税(「調」)として採用された事に。
鳥獣の日保ちが気になる処ですが
ハンドメイドの織物は租税(調)として十二分。
何処かの時点で機(はた)織り技術が倭国に伝来していた事実。
素材は 「絹」 と 「麻」・「綿」 の手織り生地と考えられますが
「調」 として所望した崇神帝ですから高級素材、絹織物の筈。
尚、天然素材、絹・麻・綿に関しましては
「絹」ファッション(fashion)Ⅰ~
「麻」ファッション(fashion)Ⅰ~
「綿」ファッション(fashion)Ⅰ~ でご確認下さい。
「調」=つき、その尊敬語で御調(みつぎ)。
日本史で習った律令制での税制度、「租庸調」 の調。
動詞のみつぐは「貢ぐ」・「見継ぐ」。
貢ぐは力ある人が、か弱い人に衣食・金品を贈る事。
見継ぐは見続ける・見届ける事。
要は力量・余裕・下心を保持する方が相手に恵み・施し・贈る事。
それが、何処かでフュージョン、逆になり、
力量ある方が、
か弱き方々からものを納めさせる構造改革を断行。
これが 「調」 =租税制度の始まり。
現在に置いてもこの構造は続行中なのです。
この租税制度を確立した事により
崇神帝は 「初国之御真木天皇」 と命名されたと。
又、崇神帝の世に 「依網池」・「軽之酒折池」 を築造。
この池は庭園に造作する風情ある 「お池」 ではなく
「水」 を確保する潅漑用水の 「溜め池」 と考えると
既に、かの時代、農耕が行われていた事になるのです。
只、古事記には 「作」 ったと記載されているのみで
何の為には記述されていません。
まさか暑い夏の 「水浴び・避暑」 用とは思えませんが・・・・・。
続く。
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