崇神帝 相津(会津)が日本の北限 426
「和訶羅河(わからがわ)」 での合戦に勝利した
大彦命と日子国夫玖命軍団は崇神帝に報告する為いったん、
大和に凱旋。
時をおかず、大彦命は
当初の目的地、北陸道(「高志〈越〉国」)へ向かう事に。
山城(「山代」)国はクリアー済みですので
近江(「淡海」)、「若狭」、
越前・加賀・能登・越中・越後(「高志」)国へと北上したのでしょう。
一方、大彦命の息子は
伊賀・伊勢・志摩(「嶋」)、「尾張」、<三河>、遠江、
<駿河>(「焼津」)、<伊豆>、「甲斐」、相模・武蔵(「相武」)
<安房>・<上総>・<下総>(総)、<常陸>国へと北上した筈。
そして両者は打ち合わせた様に今現在未だ大震災の傷を癒せない
福島県の 「相津(会津)」 で遭遇したと記載されています。
この「あいづ」、オヤジギャグに勝とも劣らないレベルの表現では?
更に、不可思議なのが東山道、
美濃(「三野」)、<飛騨>、信濃(「科野」)、下野・上野(毛野)
の国々は全く手つかずのままなのです。
中抜け制覇ですが日本海、及び、太平洋側に面した各地は
押さえたのでしょう。
もう一つ、「相津(会津)」 以北の蝦夷地<出羽>・<陸奥>と北海道
には触れず仕舞い。
この時代?日本列島の北限は会津迄だった事に。
蝦夷地には 「山本(後の新島)八重」 さん張りの
頑固一徹・豪放磊落を標榜する人々が暮らしておられたのでしょう?
思わず、「ジェ・ジェ・ジェ」 と驚き表現を。
再開した父子軍団は北陸道、或いは、東海道のどちらかを選択し
一路大和へ、否、各々平定した北陸・東海道を再確認しながら
別々に崇神帝の住まう大和を目指したのかも。
やがてお二人は大和に帰陣、崇神帝に制圧のご報告。
しかして、古事記の記述は次の様に展開します。
こうして、「天下太平」になり、「人民富栄」 となったと。
と云う事は大和より南西の
山陰道・山陽道・南海道・西海道諸国は既に崇神帝の為政下に
置かれていた事になるのです。 続く。
* 国名の「」は古事記表記
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