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2013年2月24日 (日)

稲置・宿禰の姓が出現 411

 と云う事で、綏靖帝~開化帝の血脈履歴は語られていますが
 彼らの事績は全く触れられていませんので
 「神武帝は137歳で崩御?」 で疑問を呈した
 各帝の短命・長命に関する年齢考証ができ得ないのです。
 とても気になる事ですがひとまず究明を中止。
 但しこの箇所では記述に変化があるのです。
 以前お話しした 「古事記出稿時の血脈説明」 をご覧下さい。
 ここでの古事記原文で
 「姓(かばね)」 は
 臣(おみ)・連・首・造(みやっこ)・君(きみ)・
 直(あたい)・史(ふひと)・
 県主(あがたぬし)・村主(すぐり) 迄でした。
 しかしながら、古事記中巻に突入してから
 3 安寧帝~の所から 「稲置(いなき(ぎ))」
 8 孝元帝~の所から 「宿禰(祢)(すくね)」
 表記が出現するのです。
 この 「姓」 は684年、天武帝が制定したと云われる
 「八色(やくさ)の姓」 の中に出てくる名称。
 八色の姓の順列は
 真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰・忌寸(いみき)・
 道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置の8姓。
 三番目の宿禰と八番目の稲置で嘘の三・八は冗談?
 それでは、先ず稲置から
 3 安寧帝の三男、師木津日子命に二人のご子息がいらして
 そのお一人のお子さんが
 伊賀須知之稲置 那婆理之稲置 三野之稲置の祖先と。
 伊賀国の須知(すち)・那婆理(なばり)・三野地方
 を治めたお役人となります。
 又、「伊賀国」 は天武帝時代に 「伊勢国」 から分国したと。
 現在名残を留めているのは那婆理 ⇒ 名張(市)。
 「名張市史だより」 で少し触れられています。
 稲置の次に登場するの箇所は
 4 懿徳帝の次男、多(当)芸志彦命が
 「血沼之別 多遲麻之竹別 葦井之稲置之祖」 の所。
 稲置の前に 「血沼」 地区は特定可能です。
 ここは登美能那賀須泥彦軍団の矢で負傷した五瀬命
 傷口を手当した場所。
 浪速(摂津国)と紀(伊)国との間に当たりますから和泉国に。
 次に 「多遲麻(たじま)之竹別 葦井(あしい)之稲置之祖」 地区は
 多遲麻=但馬国?と考えられ、この但馬が葦井に掛かっていれば
 葦井の但馬国のどこかで、並列なら何処かは全く不明。そして、
 8 孝元帝で宿禰の記述があまた登場。
 彼の二番目の奥様とのご子息
 彦布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)のお子さんが
 味師内宿禰(うましうちのすくね)と
 建内宿禰(たけのうちのすくね)
 (但しこのお二人の母は異なります。)
 建内宿禰は武内宿禰とも表記され、こちらの表記だと
 歴史に少し興味がある方はそう云えば何処かでって思われる筈?
 建内宿禰=武内宿禰は9名(男7女2)の子宝に恵まれその内
 宿禰と記述されているのは
 波多八代宿禰・巨勢小柄宿禰・蘇賀(我)石河宿禰
 平群都久宿禰・木(紀)角宿禰・若子宿禰の6名の方々。
 そして最後の
 9 開化帝の妻、鸇(わし)姫の父が葛城之垂見宿禰
 そして末裔に
 志夫美(しぶみ)宿禰王・息長(おきなが)宿禰王のお二人。
 宿禰は高級貴族でそれはそれは畏れ多い方々なのです。 続く。

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2013年2月17日 (日)

綏靖帝~開化帝 8代簡素血縁履歴 410

 〈2 綏靖帝〉 45歳
 神沼河耳命(綏靖帝)の事は
 既に〈1 神武帝〉の所で物語れていました。
 このコーナーで彼は葛城高岡宮に住まい、
 A 河俣姫(師木県主之祖)と結婚し、
 1 師木津日子玉手見命(安寧帝) を設け、
 御陵は衝田岡(つきたのおか)と。

 〈3 安寧帝〉 49歳
 師木津日子玉手見命(安寧帝)は片塩浮穴宮に住まい、
 A 阿久斗姫(河俣姫之兄県主殿延之女)と結婚し、
 1 常根津日子伊呂泥命
 2 大倭日子鉏友命(懿徳帝
 3 師木津日子命 を設け、
 御陵は畝火山之美富登と。
 又、長男坊の情報は無し、
 三男坊は二子を設けたと。(子細は古事記原文を

 〈4 懿徳帝〉 45歳
 大倭日子鉏友命(懿徳帝)は軽之境岡宮に住まい、
 A 賦登麻和訶姫(=飯日姫 師木県主之祖)と結婚し、
 1 御真津日子訶恵志泥命(孝昭帝
 2 多芸志彦命 を設け、
 御陵は畝火山之真名子谷上と。

 〈5 孝昭帝〉 93歳
 御真津日子訶恵志泥命(孝昭帝)は葛城掖上宮に住まい、
 A 余曾多本姫(尾張連之祖 奧津余曾之妹)と結婚し、
 1 天押帯日子命
 2 大倭帯日子国押人命(孝安帝) を設け、
 御陵は掖上博多山上と。

 〈6 孝安帝〉 123歳
 大倭帯日子国押人命(孝安帝)は葛城室之秋津嶋宮に住まい、
 A 忍鹿(おしか)姫(彼女は姪っ子)と結婚し、
 1 大吉備諸進命
 2 大倭根子日子賦斗邇命(孝霊帝) を設け、
 御陵は玉手岡上と。

 〈7 孝霊帝〉 106歳
 大倭根子日子賦斗邇命(孝霊帝)は
 黒田廬戸(いほと)宮に住まい、
 A 細(はし)姫(十市県主之祖大目之女)と結婚し、
 1 大倭根子日子国玖琉命(孝元帝
 B 春日之千千速真若姫と結婚し、
 2 千千速姫命
 C 意富夜麻登玖邇阿礼姫と結婚し、
 3 夜麻登登母母曾姫命 
 4 日子刺肩別命
 5 彦伊佐勢理彦命=大吉備津日子命
 6 倭飛羽矢若屋姫
 D 蠅伊呂杼(はえいろど)(其阿礼姫命の妹)と結婚し、
 7 日子寤間(さめま)命
 8 若日子建吉備津日子命 を設け、
 御陵は片岡馬坂上と。

 〈8 孝元帝〉 57歳
 大倭根子日子国玖琉命(孝元帝)は軽之堺原宮に住まい、
 A 内色許姫(穗積臣等之祖内色許男命の妹)と結婚し、
 1 大彦命
 2 少名日子建猪心命
 3 若倭根子日子大毘毘命(開化帝
 B 伊賀迦色許姫(内色許男命之娘)と結婚し、
 4 彦布都押之信命
 C 波邇夜須姫(河内青玉之娘)
 5 建波邇夜須彦命 を設け、
 御陵は剣池之中岡上と。

 〈9 開化帝〉 63歳
 若倭根子日子大毘毘命(開化帝)は春日之伊邪河宮に住まい、
 A 竹野姫(且波之大県主名由碁理之娘)と結婚し、
 1 彦由牟須美命
 B 伊迦賀色許姫(庶母=ままはは)と結婚し、
 2 御真木入日子印惠命(崇神帝
 3 御真津姫命
 C 意祁都姫(丸邇臣之祖日子国意祁都命之妹)と結婚し、
 4 日子坐王(ひこいますのみこ)
 D 鸇(わし)姫(葛城之垂見宿祢之娘)と結婚し、
 5 建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ) を設け、
 御陵は伊邪河之坂上と。

 上記の記述以外に係累記載が有りますが
 何とも、シンプル・さっぱり・簡素な血脈履歴だけ。
 彼らの事績は全く語られていません。
 住所・伴侶・子供達・御陵・年齢と孫だけなんですよ。    続く。

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2013年2月10日 (日)

真福寺本 古事記がWEBで 409

 ところで、わたくしどもが参考にさせて頂いている
 「近代デジタルライブラリー 国立国会図書館」 に昨年8月
 真福寺本 古事記が加わりましたのでご確認下さい。
  (真福寺本は古事記の写本で一番古いものとされています。)
 因みに、神倭伊波礼毘古天皇(神武帝)137歳で崩御の箇所を
 見比べて下さい。
 既存の古事記
 真福寺本の古事記
 わたくしどもは今後も漢字表記が明瞭な既存の古事記を参考に
 致します。それでは、古事記原文の綏靖帝~開化帝まで一挙に。

〈2 綏靖帝〉
神沼河耳命
坐葛城高岡宮
治天下也
此天皇
娶師木縣主之祖
河俣毘賣
生御子
師木津日子玉手見命(一柱)
天皇
御年肆拾伍歳
御陵在衝田岡也

〈3 安寧帝〉
師木津日子玉手見命
坐片鹽浮穴宮
治天下也
此天皇
娶河俣毘賣之兄縣主殿延之女
阿久斗比賣
生御子
常根津日子伊呂泥命(自伊下三字以音)
次大倭日子鉏友命
次師木津日子命
此天皇之御子等
并三柱之中
大倭日子鉏友命 者
治天下也
次師木津日子命之子
二王坐
一子孫者(伊賀須知之稲置 那婆理之稲置 三野之稲置之祖)
一子
和知都美命者
坐淡道之御井宮
故此王
有二女
兄名蠅伊呂泥
亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命
弟名蠅伊呂杼也
天皇
御年肆拾玖歳
御陵在畝火山之美富登也

〈4 懿徳帝〉
大倭日子鉏友命
坐軽之境岡宮
治天下也
此天皇
娶師木縣主之祖
賦登麻和訶比賣命
亦名飯日比賣命
生御子
御眞津日子訶惠志泥命(自訶下四字以音)
次多藝志比古命(二柱)
故御眞津日子訶惠志泥命者
治天下也
次當藝志比古命者(血沼之別 多遲麻之竹別 葦井之稲置之祖)
天皇
御年肆拾伍歳
御陵在畝火山之眞名子谷上也

〈5 孝昭帝〉
御眞津日子訶惠志泥命
坐葛城掖上宮
治天下也
此天皇
娶尾張連之祖
奧津余曾之妹
名余曾多本毘賣命
生御子
天押帶日子命
次大倭帶日子國押人命(二柱)
故弟帶日子國忍人命者
治天下也
兄天押帶日子命者
(春日臣 大宅臣 粟田臣 小野臣 柿本臣 壹比韋臣 大坂臣 阿那臣
  多紀臣 羽栗臣 知多臣 牟邪臣 都怒山臣 伊勢飯高君 壹師君
  近淡海國造之祖也)
天皇
御年玖拾參歳
御陵在掖上博多山上也

〈6 孝安帝〉
大倭帶日子國押人命
坐葛城室之秋津嶋宮
治天下也
此天皇
娶 姪
忍鹿比賣命
生御子
大吉備諸進命
次大倭根子日子賦斗邇命(二柱自賦下三字以音)
故大倭根子日子賦斗邇命者
治天下也
天皇
御年壹佰貳拾參歳
御陵在玉手岡上也

〈7 孝霊帝〉
大倭根子日子賦斗邇命
坐黒田廬戸宮
治天下也
此天皇
娶十市縣主之祖大目之女
名細比賣命
生御子
大倭根子日子國玖琉命(一柱玖琉二字以音)
又娶春日之千千速眞若比賣
生御子
千千速比賣命(一柱)
又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命
生御子
夜麻登登母母曾毘賣命
次日子刺肩別命
次比古伊佐勢理毘古命
亦名大吉備津日子命
次倭飛羽矢若屋比賣(四柱)
又娶其阿禮比賣命之弟
蠅伊呂杼
生御子
日子寤間命
次若日子建吉備津日子命(二柱)
此天皇之御子等
并八柱(男王五 女王三)
故大倭根子日子國玖琉命者
治天下也
大吉備津日子命與若建吉備津日子命
二柱相副而於針間氷河之前
居忌瓮而針間爲道口以
言向和吉備國也
故此大吉備津日子命者(吉備上道臣之祖也)
次若日子建吉備津日子命者(吉備下道臣 笠臣祖)
次日子寤間命者(針間牛鹿臣之祖也)
次日子刺肩別命者
(高志之利波臣 豐國之國前臣 五百原君 角鹿海直之祖也)
天皇
御年壹佰陸歳
御陵在片岡馬坂上也

〈8 孝元帝〉
大倭根子日子國玖琉命
坐軽之堺原宮
治天下也
此天皇
娶穗積臣等之祖内色許男命(色許二字以音下效此)
妹 内色許賣命
生御子
大毘古命
次少名日子建猪心命
次若倭根子日子大毘毘命(三柱)
又娶内色許男命之女
伊賀迦色許賣命
生御子
比古布都押之信命(自比至都以音)
又娶河内青玉之女
名波邇夜須毘賣
生御子
建波邇夜須毘古命(一柱)
此天皇之御子等
并五柱
故若倭根子日子大毘毘命者
治天下也
其兄大毘古命之子
建沼河別命者(阿倍臣等之祖)
次比古伊那許志別命(自比至志六字以音 此者膳臣之祖也)
比古布都押之信命
娶尾張連等之祖
意富那毘之妹
葛城之高千那毘賣(那毘二字以音)
生子
味師内宿祢(此者山代内臣之祖也)
又娶木國造之祖宇豆比古之妹
山下影日賣
生子
建内宿祢(禰)
此建内宿祢之子并九(男七女二)
波多八代宿祢者
(波多臣 林臣 波美臣 星川臣 淡海臣 長谷部君之祖也)
次許勢小柄宿祢者(許勢臣 雀部臣 軽部臣之祖也)
次蘇賀石河宿祢者
(蘇我臣 川邊臣 田中臣 高向臣 小治田臣 櫻井臣
岸田臣等之祖也)
次平群都久宿祢者(平群臣 佐和良臣 馬御樴連等祖也)
次木角宿祢者(木臣 都奴臣 坂本臣之祖)
次久米能摩伊刀比賣
次怒能伊呂比賣
次葛城長江曾都毘古者(玉手臣 的臣 生江臣 阿藝那臣等之祖也)
又若子宿祢(江野財臣之祖)
此天皇
御年伍拾漆歳
御陵在劒池之中岡上也

〈9 開化帝〉
若倭根子日子大毘毘命
坐春日之伊邪河宮
治天下也
此天皇
娶且波之大縣主名由碁理之女
竹野比賣
生御子
比古由牟須美命(一柱 此王名以音)
又娶庶母伊迦賀色許賣命
生御子
御眞木入日子印惠命(印惠二字以音)
次御眞津比賣命(二柱)
又娶丸邇臣之祖
日子國意祁都命之妹
意祁都比賣命(意祁都三字以音)
生御子
日子坐王(一柱)
又娶葛城之垂見宿祢之女
鸇比賣
生御子
建豐波豆羅和氣王(一柱 自波下五字以音)
此天皇之御子等
并五柱(男王四 女王一)
故御眞木入日子印惠命者
治天下也
其兄比古由牟須美王之子
大筒木垂根王
次讃岐垂根王(二王 讃岐二字以音)
此二王之女五柱坐也
次日子坐王
娶山代之荏名津比賣
亦名苅幡戸辨(此一字以音)
生子
大俣王
次小俣王
次志夫美宿祢王(三柱)
又娶春日建國勝戸賣之女
名沙本之大闇見戸賣
生子
沙本毘古王
次袁邪本王
次沙本毘賣命
亦名佐波遲比賣
(此沙本毘賣命者 爲伊久米天皇之后
  自沙本毘古以下三王名皆以音)
次室毘古王(四柱)
又娶近淡海之御上祝以伊都玖(此三字以音)
天之御影神之女
息長水依比賣
生子
丹波比古多多須美知能宇斯王(此王名以音)
次水之穗眞若王
次神大根王
亦名八瓜入日子王
次水穗五百依比賣
次御井津比賣(五柱)
又娶其母弟袁祁都比賣命
生子
山代之大筒木眞若王
次比古意須王
次伊理泥王(三柱 此二王名以音)
凡日子坐王之子
并十一王
故兄大俣王之子
曙立王
次菟上王(二柱)
此曙立王者(伊勢之品遲部君 伊勢之佐那造之祖)
菟上王者(比賣陀君之祖)
次小俣王者(當麻勾君之祖)
次志夫美宿祢王者(佐佐君之祖也)
次沙本毘古王者(日下部連 甲斐國造之祖)
次袁邪本王者(葛野之別 近淡海蚊野之別祖也)
次室毘古王者(若狹之耳別之祖)
其美知能宇志王
娶丹波之河上之摩須郎女
生子
比婆須比賣命
次眞砥野比賣命
次弟比賣命
次朝廷別王(四柱)
此朝廷別王者(三川之穗別之祖)
此美知能宇斯王之弟
水穗眞若王者(近淡海之安直之祖)
次神大根王者(三野國之 本巣國造 長幡部連之祖)
次山代之大筒木眞若王
娶同母弟伊理泥王之女
丹波能阿治佐波毘賣
生子
迦邇米雷王(迦邇米三字以音)
此王娶丹波之遠津臣之女
名高材比賣
生子
息長宿祢王
此王娶葛城之高額比賣
生子
息長帶比賣命
次虚空津比賣命
次息長日子王(三柱 此王者 吉備品遲君 針間阿宗君之祖)
又息長宿禰王娶河俣稻依毘賣
生子
大多牟坂王(多牟二字以音 此者多遲摩國造之祖也)
上所謂建豐波豆羅和氣王者
(道守臣 忍海部造 御名部造 稻羽忍海部 丹波之竹野別
  依網之阿毘古等之祖也)
天皇
御年陸拾參歳
御陵在伊邪河之坂上也

 たいへんお疲れ様でした。ちょいと長過ぎたかしら
 只、8世代の帝の分量ですからそれ程でも?
 読み解きは来週に。
                             続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書古事記中下巻P14の9行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2013年2月 3日 (日)

神武帝は137歳で崩御? 408

 古事記には

 「凡此神倭伊波禮毘古天皇
  御年壹佰参拾漆歳
  御陵在火山之北方白檮尾上成」

 と堂々?記されています。
 神倭伊波礼毘古天皇(神武帝)は御年、137歳で崩御、
 御陵は畝傍山(「畆火山」)の北方、白檮(カシと読むそう)尾にと。
 御陵はここでは取り急ぎ触れない事にし、御年、137歳について。
 「山幸彦 伍佰捌拾歳(580年)生存?」 で紹介した
 「数」への漢字配当のおさらい。

 0=零 1=壱・壹 2=弐・貮 3=参・參
 4=肆 5=伍 6=陸 7=漆 8=捌 9=玖
 10=拾 100=佰・陌 1,000=仟・阡 10,000=萬

 よって、「壹佰参拾漆歳」 は137歳に。
 古事記に於いて、綏靖帝(2代)から開化帝(9代)迄の皆さんを
 さっぱりと説明していますので
 御年の部分だけピックアップしてみます。

 神武帝 (壹佰参拾漆歳) 137歳
 綏靖帝 (肆拾伍歳)  45歳
 安寧帝 (肆拾玖歳)  49歳
 懿徳帝 (肆拾伍歳)  45歳
 孝昭帝 (玖拾參歳)  93歳
 孝安帝 (壹佰貳拾參歳) 123歳
 孝霊帝 (壹佰陸歳) 106歳
 孝元帝 (伍拾漆歳)  57歳
 開化帝 (陸拾參歳)  63歳

 古事記原作者の字面を素直に取り入れれば
 初代、神武帝・6代、孝安帝・7代、孝霊帝は百歳を超える長寿に。
 5代、孝昭帝も現在日本高齢化社会と遜色なく90歳代。
 残る5名の帝は現代から鑑みるにやや早死に気味。
 何と云っても傑出は神武帝の137歳。
 幾ら、おおらかストレス無し?の時代であったとしても
 この数字は如何にも眉唾ではと思われませんこと。
 彼は大和制圧遠征時、アーリ大和在住民族の抵抗・反撃に
 大いにストレスを感じたと思うのですが???
 ただ妙に気になるのは明確な年齢配当数字。
 きっと以て、いい加減な数字ではない筈では?
 この数字の大きさに疑問を呈してよく引き合い出される
 「魏略(ぎりゃく)」。(魏・蜀・呉の中国三国時代の歴史書)
 この中に倭国について甚だ侮辱している文が。
 それは 「三国志」 に注を加えたと云われる裴松の文書に
 「魏略曰 其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀」 と。
 何と、かの時代の日本人は暦・四季を知らなかったと。
 まさか四季折々の変化を感じていなかったとはとても心外千万。
 まあその時代、世界に君臨した中華思想ですから・・・・・。
 万歩譲ってその次の記述
 「但計春耕秋收爲年紀」
 かの時代農耕時代であったのか、
 「春に耕し・秋に収めて」を以てして「年紀を計」っていたと。
 この一文から春一年・秋一年とする説が。
 これに従うと神武帝は現在の年紀では68歳と6ヶ月弱に。
 何とはなしに納得するお歳にはなりますが、
 今度は2、30代で亡くなられた帝が
 9名の内5名をも輩出してしまうのです。
 荒ぶる自然の神々を相手にしていたのだからそう考えても
 よさげですがやはり不自然感が漂いませんこと。
 この若くして亡くなられた帝の事績をあたって見る事が一番では。
                            続く。

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