稲置・宿禰の姓が出現 411
と云う事で、綏靖帝~開化帝の血脈履歴は語られていますが
彼らの事績は全く触れられていませんので
「神武帝は137歳で崩御?」 で疑問を呈した
各帝の短命・長命に関する年齢考証ができ得ないのです。
とても気になる事ですがひとまず究明を中止。
但しこの箇所では記述に変化があるのです。
以前お話しした 「古事記出稿時の血脈説明」 をご覧下さい。
ここでの古事記原文で
「姓(かばね)」 は
臣(おみ)・連・首・造(みやっこ)・君(きみ)・
直(あたい)・史(ふひと)・
県主(あがたぬし)・村主(すぐり) 迄でした。
しかしながら、古事記中巻に突入してから
3 安寧帝~の所から 「稲置(いなき(ぎ))」
8 孝元帝~の所から 「宿禰(祢)(すくね)」
表記が出現するのです。
この 「姓」 は684年、天武帝が制定したと云われる
「八色(やくさ)の姓」 の中に出てくる名称。
八色の姓の順列は
真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰・忌寸(いみき)・
道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置の8姓。
三番目の宿禰と八番目の稲置で嘘の三・八は冗談?
それでは、先ず稲置から
3 安寧帝の三男、師木津日子命に二人のご子息がいらして
そのお一人のお子さんが
伊賀須知之稲置 那婆理之稲置 三野之稲置の祖先と。
伊賀国の須知(すち)・那婆理(なばり)・三野地方
を治めたお役人となります。
又、「伊賀国」 は天武帝時代に 「伊勢国」 から分国したと。
現在名残を留めているのは那婆理 ⇒ 名張(市)。
「名張市史だより」 で少し触れられています。
稲置の次に登場するの箇所は
4 懿徳帝の次男、多(当)芸志彦命が
「血沼之別 多遲麻之竹別 葦井之稲置之祖」 の所。
稲置の前に 「血沼」 地区は特定可能です。
ここは登美能那賀須泥彦軍団の矢で負傷した五瀬命が
傷口を手当した場所。
浪速(摂津国)と紀(伊)国との間に当たりますから和泉国に。
次に 「多遲麻(たじま)之竹別 葦井(あしい)之稲置之祖」 地区は
多遲麻=但馬国?と考えられ、この但馬が葦井に掛かっていれば
葦井の但馬国のどこかで、並列なら何処かは全く不明。そして、
8 孝元帝で宿禰の記述があまた登場。
彼の二番目の奥様とのご子息
彦布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)のお子さんが
味師内宿禰(うましうちのすくね)と
建内宿禰(たけのうちのすくね)
(但しこのお二人の母は異なります。)
建内宿禰は武内宿禰とも表記され、こちらの表記だと
歴史に少し興味がある方はそう云えば何処かでって思われる筈?
建内宿禰=武内宿禰は9名(男7女2)の子宝に恵まれその内
宿禰と記述されているのは
波多八代宿禰・巨勢小柄宿禰・蘇賀(我)石河宿禰
平群都久宿禰・木(紀)角宿禰・若子宿禰の6名の方々。
そして最後の
9 開化帝の妻、鸇(わし)姫の父が葛城之垂見宿禰
そして末裔に
志夫美(しぶみ)宿禰王・息長(おきなが)宿禰王のお二人。
宿禰は高級貴族でそれはそれは畏れ多い方々なのです。 続く。
| 固定リンク
コメント