神武帝は137歳で崩御? 408
古事記には
「凡此神倭伊波禮毘古天皇
御年壹佰参拾漆歳
御陵在火山之北方白檮尾上成」
と堂々?記されています。
神倭伊波礼毘古天皇(神武帝)は御年、137歳で崩御、
御陵は畝傍山(「畆火山」)の北方、白檮(カシと読むそう)尾にと。
御陵はここでは取り急ぎ触れない事にし、御年、137歳について。
「山幸彦 伍佰捌拾歳(580年)生存?」 で紹介した
「数」への漢字配当のおさらい。
0=零 1=壱・壹 2=弐・貮 3=参・參
4=肆 5=伍 6=陸 7=漆 8=捌 9=玖
10=拾 100=佰・陌 1,000=仟・阡 10,000=萬
よって、「壹佰参拾漆歳」 は137歳に。
古事記に於いて、綏靖帝(2代)から開化帝(9代)迄の皆さんを
さっぱりと説明していますので
御年の部分だけピックアップしてみます。
神武帝 | (壹佰参拾漆歳) | 137歳 |
綏靖帝 | (肆拾伍歳) | 45歳 |
安寧帝 | (肆拾玖歳) | 49歳 |
懿徳帝 | (肆拾伍歳) | 45歳 |
孝昭帝 | (玖拾參歳) | 93歳 |
孝安帝 | (壹佰貳拾參歳) | 123歳 |
孝霊帝 | (壹佰陸歳) | 106歳 |
孝元帝 | (伍拾漆歳) | 57歳 |
開化帝 | (陸拾參歳) | 63歳 |
古事記原作者の字面を素直に取り入れれば
初代、神武帝・6代、孝安帝・7代、孝霊帝は百歳を超える長寿に。
5代、孝昭帝も現在日本高齢化社会と遜色なく90歳代。
残る5名の帝は現代から鑑みるにやや早死に気味。
何と云っても傑出は神武帝の137歳。
幾ら、おおらかストレス無し?の時代であったとしても
この数字は如何にも眉唾ではと思われませんこと。
彼は大和制圧遠征時、アーリ大和在住民族の抵抗・反撃に
大いにストレスを感じたと思うのですが???
ただ妙に気になるのは明確な年齢配当数字。
きっと以て、いい加減な数字ではない筈では?
この数字の大きさに疑問を呈してよく引き合い出される
「魏略(ぎりゃく)」。(魏・蜀・呉の中国三国時代の歴史書)
この中に倭国について甚だ侮辱している文が。
それは 「三国志」 に注を加えたと云われる裴松の文書に
「魏略曰 其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀」 と。
何と、かの時代の日本人は暦・四季を知らなかったと。
まさか四季折々の変化を感じていなかったとはとても心外千万。
まあその時代、世界に君臨した中華思想ですから・・・・・。
万歩譲ってその次の記述
「但計春耕秋收爲年紀」
かの時代農耕時代であったのか、
「春に耕し・秋に収めて」を以てして「年紀を計」っていたと。
この一文から春一年・秋一年とする説が。
これに従うと神武帝は現在の年紀では68歳と6ヶ月弱に。
何とはなしに納得するお歳にはなりますが、
今度は2、30代で亡くなられた帝が
9名の内5名をも輩出してしまうのです。
荒ぶる自然の神々を相手にしていたのだからそう考えても
よさげですがやはり不自然感が漂いませんこと。
この若くして亡くなられた帝の事績をあたって見る事が一番では。
続く。
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