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2013年1月 6日 (日)

当芸志美美命が前后を娶る 404

 例年よりも寒々しい新春を寿ぎ
 遅ればせながらここに謹んでお慶びを申し上げてしまう次第です。
 本年も何卒宜しく御願い奉りまーす。

 それでは昨年度からの続きです。
 神倭伊波礼彦(神武帝)が
 (天寿を全うされたのか、或いは、病死されたのか?)
 崩御された後、
 神倭伊波礼彦(神武帝)の庶兄(まませ=母の違うお兄さん)
 當藝志美美命(たぎしみみのみこと)は伊須気余理姫を娶る事に。
 当芸志美美命=多藝志美美命は神武帝が 「日向(ひむか)」
 にいらした際の先妻のご子息。
 日向在住時代の息子さんも大和制圧部隊にいらしたのですね。
 現代ではこの婚姻に違和を感じると思いますが
 多分、かの時代はとても自然な成り行きであったのでしょう。
 因みに 「史記」 に漢民族にとっては北狄(ほくてき)と見なされた
 北方遊牧民族達は
 単于(ぜんう)=君主(世襲による部族の統治者)が
 亡くなった後に前単于の后を娶っていた事実が記されています。
 単于の兄弟、及び、子息にとって、
 単于の正妻は非常に大切な存在だったのです。
 十中八九、大和地区在住者は 「この文化」 を受け継いでいたと
 考えられます。
 大和先住部族を制圧した神倭伊波礼彦(神武帝)軍団は
 「この文化」 を踏襲したのでしょう。
 この事については何れ又触れたいと思います。
 神武帝の后(伊須気余理姫)を娶った
 当芸志美美命(多芸志美美命)は 「帝位」 を奪取すべく
 神武帝と伊須気余理姫とにできた
 三人の息子達の暗殺を謀ります。
 それをからくも察知した伊須気余理姫はご自分の息子達に
 「歌」 で知らせたのです。

 佐韋賀波用 (さゐがわ〈狭井川〉よ)
 久毛多知和多理 (くもたちわたり〈雲立渡り〉)
 宇泥備夜麻 (うねびやま〈畝傍山〉)
 許能波佐夜藝奴 (このは〈木の葉〉さやぎぬ)
 加是布加牟登須 (かぜふか〈風吹〉むとす)

 宇泥備夜麻 (うねびやま)
 比流波久毛登韋 (ひる〈昼〉はくもとゐ)
 由布佐禮婆 (ゆう〈夕〉されば)
 加是布加牟登曾 (かぜふかむとそ)
 許能波佐夜牙流 (このはさやげる)

 さやぐ・・・ざわざわと音がする。

 母のシグナルに気づき、驚いた
 長男坊の日子八井命(ひこやいのみこと)
 次男坊の神八井耳命(かむやいみみのみこと)
 三男坊の神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)
 の内、次男坊と三男坊が先手を打って
 当芸志美美命の命(いのち)を頂く事を決断、行為に及ぶ事に。
                                                                 続く。

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