久米歌 早く食事をお願い 395
次の久米歌は戦闘後の歌との事。
兄師木(えしき)・弟師木(おとしき)一族軍団を破る事に手こずり
激しく疲労困憊(こんぱい)した後の歌。
多多那米弖 (たたねめて) 「楯並めて」
伊那佐能夜麻能 (いなさのやまの) 「伊那佐の山の」
許能麻用母 (このまよも) 「木の間よも」
伊由岐麻毛良比 (いいきまもらひ) 「い行きまもらひ」
多多加閉婆 (たたかへば) 「戦へば」
和禮波夜惠奴 (われはやゑぬ) 「われはや飢ぬ」
志麻都登理 (しまつとり) 「島つ鳥」
宇加比賀登母 (うかひがとも) 「鵜養が伴」
伊麻須氣爾許泥 (いますけにこね) 「今助けに来ね」
兄師木・弟師木一族は伊那佐山が根拠地だった模様。
伊那佐山についてはとてもシンプルに奈良県宇陀市観光サイトで
触れています。
又、八咫烏神社のサイト、「伊那佐山について」 で
この歌を取り上げています。
大概、激しく躰(からだ)を動かした後はお腹が空くもの。
にも関わらず兄師木・弟師木一族は
神倭伊波礼彦(神武帝)軍団に
食事を取る時間を与えない波状攻撃・ゲリラ戦で応戦した感じ。
神武帝軍団は
2~3日間全く食事が取れず床に着く事も不可だったやも。
結果的には久米精鋭戦士がへとへとになりながらも
勝利を収めたのでしょう。
そこで、「お腹がぺこぺこだから一刻も早くご飯」 を要請する
上の歌をみんなで声高らかに謡ったのではないでしょうか。
「腹が減っては戦は出来ぬ」 は当然の事として、
お仕事を成し遂げた後の食事はこれ又 「美味しい事、格別」。
この時代 「先ずは麦酒」 と云うフレーズはなかったものの
「取り急ぎ一献」 に当たる食前酒があったのでは?
又、食事の内容は
「宇加比賀登母(うかひがとも)『鵜養が伴』」 から
食事のメインは 「お魚」 だったと予想できます。
又、先週の久米歌には
阿波布(粟生)・・・粟畑
賀美良(韮=かみら)・・・韮(にら)
波士加美(薑・椒=はじかみ)・・・生姜・山椒
志多陀美(細螺=しただみ)・・・細螺(きさご)
が記されていますので穀類・野菜・香辛料・魚介類などが
食せられていたと想像可能。
なぜか、お動物性お肉が見あたりません。
とても健康に留意されていたのかも知れません。
続く。
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