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2012年7月29日 (日)

強靱な横刀は布都神(ふつのかみ)384

 神倭伊波礼彦(神武帝)軍団は
 紀伊国(和歌山県)の 「竈山(かまやま)=和歌山市和田」 あたり
 から更に、紀伊半島海外沿いを南下し東上。
 要は紀伊半島海外沿いに舟で移動し熊野村に到着。
 彼の地に上陸すると何とどでかい熊のようなものが。
 そうこうしている内に大熊の感じの者達を見失います。
 そんな光景に神倭伊波礼彦(神武帝)軍団は恐れおののき
 全員、気を失い倒れ伏す始末。
 この時、熊野村在住の 「高倉下(たかくらじ)」 と云うお方が
 「横刀」 を携えて神倭伊波礼彦(神武帝)の倒れている処に登場。
 するとどうしたことか、たちまち神倭伊波礼彦(神武帝)は
 気を取り戻す事に。
 ここは高倉下が彼を揺すって無理矢理起こしたのでしょう。
 起きあがった神武帝は
 「一体どのくらい寝ていたのだろう?」 と呟きながら
 (恥じらう神武帝?)
 早速、高倉下から 「横刀」 を譲り受け熊野の山々に住まう
 荒ぶる者 (大熊の感じの者達) を攻撃。
 この 「横刀」 は中々優れものの武器だったらしく
 大熊の感じの相手はいとも簡単に降参してしまうのです。
 騒々しいこのやり取りで神倭伊波礼彦(神武帝)軍団も
 正気に戻れたのです。
 この優れもの 「横刀」 に神倭伊波礼彦(神武帝)も超びっくり、
 高倉下にこの武器を如何に手に入れたのか問いただします。
 ここからはやや物語風な展開に突入。
 「過日、私は夢を見たのです。
  その夢と云うのは
  天照大神と高木神の神々が建御雷神を召しだし
 『今、又、葦原中国は非常にかまびしい。
  よって以前お前が服従させた経緯から再度出動してくれんか』 と
 それに対し、建御雷神はお答えになります。
 『嫌々、それには及びません。以前平定させて際の武器(横刀)
  がここにありますのでこれをお使いになったら如何でしょう』 と
 〈この横刀の名は
  佐士布都神(さじふつのかみ)
  甕布都神(みかふつのかみ)
  布都御魂(ふつのみたま)
  と云い、今は石上神宮(いそのかみじんぐう)におわします。〉
 そして、建御雷神は私におっしゃるのです。
 『お前の倉の屋根に穴を開けこの横刀を授けるから、目覚めたら
   これを天神御子にお渡しする様に』 と 
 私は朝起きて一目散に倉を確認すると
 夢のお告げの様に横刀があるではございませんか。
 そこで私は貴男様の居場所をスマホで探索し?
 この横刀を献じる為、馳せ参じたしだいなのです。」 と。
 何やら胡散臭げですがかの様に古事記に記載されているのです。
 
 尚、石上神宮につきましては
 石上神宮 ⇒ 神話にみる石上神宮の神様 ⇒ 布都御魂大神で
 説明されていますのでご確認下さい。                         続く。

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2012年7月22日 (日)

神武帝軍 熊野着 古事記原文 383

 いよいよ、神倭伊波礼彦(神武帝)軍団が熊野に到着。
 そこの古事記原文です。

故神倭伊波禮毘古命
從其地迴幸
到熊野村之時
大熊髣出入
即失
爾神倭伊波禮毘古命
倏忽爲遠延
及御軍皆遠延而
伏 (遠延二字以音)
此時熊野之高倉下 (此者人名)
齎一横刀
到於天神御子之伏地而
獻之時
天神御子即寤起
詔長寢乎
故受取其横刀之時
其熊野山之荒神
自皆爲切仆
爾其惑伏御軍
悉寤起之
故天神御子
問獲其横刀之所由
高倉下答曰
己夢云
天照大神高木神
二柱神之命以
召建御雷神而詔
葦原中國者
伊多玖佐夜藝帝阿理祁理 (此十一字以音)
我之御子等
不平坐良志 (此二字以音)
其葦原中國者
專汝所言向之國故
汝建御雷神可降
爾答曰
僕雖不降
專有平其國之横刀可降
(此刀名云佐士布都神
亦名云甕布都神
亦名布都御魂
此刀者
坐石上神宮也)
降此刀状者
穿高倉下之倉頂
自其墮入
故建御雷神教曰
穿汝之倉頂
以此刀墮入
故阿佐米余玖 (自阿下五字以音)
汝取持
獻天神御子
故如夢教而
旦見己倉者
信有横刀
故以是横刀而獻耳。                  

 来週読み解きます。                                  続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書の古事記中下巻P04の7行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2012年7月15日 (日)

五瀬命に矢が的中 382

 登美能那賀須泥彦との戦闘に敗れた神武帝軍団が記述されて
 いる箇所です。
 ここでも数多の地名が紹介されています。
 水先案内人の槁根津日子に従い最初に登場した地名は
 浪速之渡、その次に白肩津。
 神武帝舟軍団は浪速の渡し場を経て青雲之白肩津に停泊。
 かの地で登美能那賀須泥彦達は侵入者に矢を射かけます。
 神武帝軍団は装備していた楯で降りそそぐ矢を防ぐ事で手一杯。
 そこでこの地を 「楯津(たてつ)」 と。
 更に、今は 「日下之蓼津(くさかのたでつ)」 と。
 これ迄の地名
 登美・浪速・白肩津・楯津=日下之蓼津らは
 浪速(なにわ)からの連想で現在の大坂地区の何処か。
 この戦いで神武帝の兄の五瀬命は手に那賀須泥彦の矢が的中し
 深手を負う始末。
 五瀬命はこの体たらくを反省。
 「私達は 『日神之御子』 にも関わらず、日に向かって闘おうとした
  事がいけなかったと思案し、日を背にする方角へ移動する策に。」
 (しかしながら、午後の戦闘なら日を背にできた筈。
  きっと以て何らかの理由で移動せざるを得なかったのでは?
   基本的には敗走。)
 神武帝軍団は一路南へ進路変更。
 その途中に 「沼」 が。
 五瀬命は思わず沼の水で射られた手を洗浄。
 然るにこの 「沼」 は 「血沼海」 と。
 この表現ですからかなりの出血だったのでしょう。
 やがて 「血沼海」 を後にし進むと、
 「紀国男之水門 (きのくに おのみなと)」 に到着。
 「紀国」 より大阪府から和歌山県領域に辿り着いた事に。
 かの地で五瀬命は出血多量で死を迎えます。
 彼は死を悟り雄叫びを
 「なんであんな奴の手に掛かって死んでしまうのかっ!」
 それ故、この 「水門(=港)」 を 「男水門(おのみなと)」 と。
 「あんな奴」 とは行きがかりで実際は那賀須泥彦の顔を
 五瀬命は観ていないと考えます。
 彼の本懐を遂げずに旅立つ悔しさ表現。
 只、那賀須泥彦らに取っては 「侵入者であり侵略者」。
 昨今、耳にする 「丁寧な議論」 と云う代物はまやかし物。
 最終的には 「力の戦い」 になるのでは。                     
 結果的に神武帝軍団が勝利したお陰で五瀬命は葬られます。
 陵は紀伊国(和歌山県)の 「竈山(かまやま)=和歌山市和田」
 と記されています。
 「竈山神社」 は和歌山県神社庁で紹介されています。   続く。

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2012年7月 8日 (日)

登美能那賀須泥彦軍が神武帝軍団を粉砕 381

 東上する神武帝軍団一行に初めて戦いを挑む地元軍団が登場。
 抵抗を試みたのは
 「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)」 らの皆さん。
 そこの箇所の古事記原文です。

故從其國上行之時
經浪速之渡而
泊青雲之白肩津
此時登美能那賀須泥毘古 (自登下九字以音)
興軍
待向以戰爾取所入御舩一之楯而
下立
故號其地
謂楯津
於今者云日下之蓼津也
於是與登美毘古戰之時
五瀬命
於御手負登美毘古之痛矢串
故爾詔
吾者爲日神之御子
向日而戰不良
故負賤奴之痛手
自今者
行迴而
背負日以撃
期而
自南方
迴幸之時
到血沼海
洗其御手之血
故謂血沼海也
從其地迴幸
到紀國男之水門而詔
負賤奴之手乎死
爲男建而崩
故號其水門
謂男水門也
陵即在紀國之竈山也

 来週読み解きます。                                           続く。

 web上では
 国立国会図書館 電子図書館蔵書の古事記中下巻P03の10行目で
 確認可能ですので是非ご覧下さい。

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2012年7月 1日 (日)

速吸門での釣り人 槁根津日子 380

 神倭伊波礼彦命(神武帝)軍団は8年暮らした高嶋宮を後にし
 此処からは明確に 「舟」 を仕立てて東へ進みます。
 すると間もなく、
 「小舟(亀の甲)」 からこちらに手を振っている漁師が波間に。
 そこは潮の流れがめっぽう速い、速吸門(はやすいのと)。
 速吸門は吉備国の児島湾口の古称とされています。
 (現在の岡山県岡山市児島湾近辺?)
 因みに、いつもお世話になっております梅原猛さんは
 この速吸門を播磨国の明石海峡とされています。
 (「神々の流竄 梅原猛著作集8 集英社 p431」)
 児島湾と明石海峡との距離は約100㎞程。
 速吸門を明石海峡と設定すると吉備国高嶋宮を出立してから
 かなり時間の経過が必要に。
 どちらを取るにしても東方への進路には間違え有りません。
 この陽気な漁師さんは当然、土着のお方で潮の流れは元より
 海の道は目を瞑っても分かる釣り人。
 彼の存在は
 海路に不案内な神倭伊波礼彦命(神武帝)軍団に取って
 願ってもないお方。
 神武帝軍団がどの様な懐柔策を用いたのか計り知れませんが
 漁師さんは水先案内人(パイロット)を引き受ける事に成るのです。
 更に、ご褒美に神倭伊波礼彦命から名前まで頂戴します。
 その名は 「槁根津日子(さおねつひこ)」。
 槁=棹で舟を進める水棹(みさお)。
 漱石、草枕 「情(じょう)に棹させば流される」 の棹。
 決して流されてはならじ、 「みさお(操)」 を立てねば。
 はたまた、立てるのは 「さお(竿)」 では。
 中々味わい深いものが・・・・・。
 話を戻し、舟を操舵・前進させる 「棹」 の一文字を賜った
 槁根津日子(さおねつひこ)、
 彼は倭国の国造(くにのみやっこ=国の御奴)らの祖とか。
 国造は地方の長(おさ)、差詰め今の県知事感じ。
 只、漁師さんが国造になれたのは
 後に神倭伊波礼彦命(神武帝)軍団が葦原中津国を制圧した結果。
 論功行賞による人事。
 神武帝軍団がのされていれば
 悠々自適な釣り人で日々過ごされたのです。         続く。

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