五瀬命に矢が的中 382
登美能那賀須泥彦との戦闘に敗れた神武帝軍団が記述されて
いる箇所です。
ここでも数多の地名が紹介されています。
水先案内人の槁根津日子に従い最初に登場した地名は
浪速之渡、その次に白肩津。
神武帝舟軍団は浪速の渡し場を経て青雲之白肩津に停泊。
かの地で登美能那賀須泥彦達は侵入者に矢を射かけます。
神武帝軍団は装備していた楯で降りそそぐ矢を防ぐ事で手一杯。
そこでこの地を 「楯津(たてつ)」 と。
更に、今は 「日下之蓼津(くさかのたでつ)」 と。
これ迄の地名
登美・浪速・白肩津・楯津=日下之蓼津らは
浪速(なにわ)からの連想で現在の大坂地区の何処か。
この戦いで神武帝の兄の五瀬命は手に那賀須泥彦の矢が的中し
深手を負う始末。
五瀬命はこの体たらくを反省。
「私達は 『日神之御子』 にも関わらず、日に向かって闘おうとした
事がいけなかったと思案し、日を背にする方角へ移動する策に。」
(しかしながら、午後の戦闘なら日を背にできた筈。
きっと以て何らかの理由で移動せざるを得なかったのでは?
基本的には敗走。)
神武帝軍団は一路南へ進路変更。
その途中に 「沼」 が。
五瀬命は思わず沼の水で射られた手を洗浄。
然るにこの 「沼」 は 「血沼海」 と。
この表現ですからかなりの出血だったのでしょう。
やがて 「血沼海」 を後にし進むと、
「紀国男之水門 (きのくに おのみなと)」 に到着。
「紀国」 より大阪府から和歌山県領域に辿り着いた事に。
かの地で五瀬命は出血多量で死を迎えます。
彼は死を悟り雄叫びを
「なんであんな奴の手に掛かって死んでしまうのかっ!」
それ故、この 「水門(=港)」 を 「男水門(おのみなと)」 と。
「あんな奴」 とは行きがかりで実際は那賀須泥彦の顔を
五瀬命は観ていないと考えます。
彼の本懐を遂げずに旅立つ悔しさ表現。
只、那賀須泥彦らに取っては 「侵入者であり侵略者」。
昨今、耳にする 「丁寧な議論」 と云う代物はまやかし物。
最終的には 「力の戦い」 になるのでは。
結果的に神武帝軍団が勝利したお陰で五瀬命は葬られます。
陵は紀伊国(和歌山県)の 「竈山(かまやま)=和歌山市和田」
と記されています。
「竈山神社」 は和歌山県神社庁で紹介されています。 続く。
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