神倭伊波礼彦命達の遠征 378
神倭伊波礼彦命と五瀬命の兄弟は
高千穗宮にいらした。
お二人は相談してこの地から東に移動する事に決定。
彼の地、高千穂は
稲作に適さなかったのか、或いは、
この地区が近くの軍団に脅かされ続ける地だったのでしょうか?
或いは
火遠理命=山幸彦の嫡男が治める国に嫌気がさしたのか?
真相は定かでありませんが神倭伊波礼彦命と五瀬命は
一族郎党を伴い高千穂を離れます。
先ず向かった先は
筑紫地方。
豊国の
宇沙(宇佐)についた時、宇沙都彦・宇沙都姫と云う土地の方が
直ちに彼らの住まう所を供給。
彼らに神倭伊波礼彦命一族は歓待され饗応を受けるのです。
と云う事は宇沙(佐)に暮らす方々とは同胞?
此処での滞在期間は記載されていませんが次に遷った先
竺(筑)紫の岡田宮に一年滞在と記されていますので
一年以内に。
此処までが九州地区の地名。
因みに、この 「竺紫」 表記は古事記上巻に2度登場しています。
最初は伊邪那岐命の禊ぎ所、
「到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐(此三字以音)原而 禊祓也」
こちらは 「伊邪那岐命の服と小物」 でご確認を。
次は邇邇芸命一行らが高天原から天下った所、
「天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣
(自久以下六字以音)」
こちらは 「竺紫日向之高千穗??? 」 でご確認を。
又、「筑紫」 表記は古事記のイントロで端から出現しています。
現在の九州を 「筑紫嶋」 と。
更にこの筑紫嶋を四分割して
「筑紫国」 「豊国」 「肥国」 「熊曾国」 と。
こちらは 「古事記のイントロ 国生み」 でご確認を。
これらの国の境界を何処に設置していたかは不明ですが
大凡、
筑紫国は九州北部、豊国は九州東部、肥国は九州西部
そして、熊曾国は九州南部エリアに該当します。
従って、筑紫=竺紫を前提とすると
日向の高千穗は豊国エリアに属し、
神倭伊波礼彦命(神武帝)一行は
豊国から筑紫国に向かった事に。
只、古事記撰上(712年)時の九州地区行政区分は西海道として
筑前・筑後 豊前・豊後 肥前・肥後 日向 大隅 薩摩の
九国にエリア分けされていました。
とすると、日向国 ⇒ 豊後国宇佐 ⇒ 筑前国岡田
の経路を辿った事になります。
只、海路か陸路かは不明。
後に海路を伺わせる箇所が記載されていますので 「舟」 での移動
とは思われますがもし東に進むのであれば、
大分国後半島宇佐から瀬戸内に進路を取る方が効率的です。
神武帝らはその進路を取らず、北九州岡田宮に立ち寄っています。
この経路ですと関門海峡を選択した事が想像され、
日向国から海岸線を北上する陸路であった可能性も残ります。
更に遠征軍団の規模にも関わるのですが大部隊ですと
大型輸送船が無い時代ですので 「小舟」 を数多用意しなくては
移動不可能になる筈ですから陸路の可能性が高まる事に。
何れにせよ遠征軍団の様子も不明ですので・・・・・。 続く。
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