« 神倭伊波礼毘古命軍団 日向発つ 377 | トップページ | 神武軍団九州を後にし山陽道に 379 »

2012年6月17日 (日)

神倭伊波礼彦命達の遠征 378

 神倭伊波礼彦命と五瀬命の兄弟は
 高千穗宮にいらした。
 お二人は相談してこの地から東に移動する事に決定。
 彼の地、高千穂は
 稲作に適さなかったのか、或いは、
 この地区が近くの軍団に脅かされ続ける地だったのでしょうか?
 或いは
 火遠理命=山幸彦の嫡男が治める国に嫌気がさしたのか?
 真相は定かでありませんが神倭伊波礼彦命と五瀬命は
 一族郎党を伴い高千穂を離れます。
 先ず向かった先は
 筑紫地方。
 豊国
 宇沙(宇佐)についた時、宇沙都彦・宇沙都姫と云う土地の方が
 直ちに彼らの住まう所を供給。
 彼らに神倭伊波礼彦命一族は歓待され饗応を受けるのです。
 と云う事は宇沙(佐)に暮らす方々とは同胞?
 此処での滞在期間は記載されていませんが次に遷った先
 竺(筑)紫の岡田宮に一年滞在と記されていますので
 一年以内に。
 此処までが九州地区の地名。
 因みに、この 「竺紫」 表記は古事記上巻に2度登場しています。
 最初は伊邪那岐命の禊ぎ所、

「到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐(此三字以音)原而 禊祓也」
 こちらは 「伊邪那岐命の服と小物」 でご確認を。

 次は邇邇芸命一行らが高天原から天下った所、
「天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣
(自久以下六字以音)」
  こちらは 「竺紫日向之高千穗??? 」 でご確認を。

 又、「筑紫」 表記は古事記のイントロで端から出現しています。
 現在の九州を 「筑紫嶋」 と。
 更にこの筑紫嶋を四分割して
 「筑紫国」 「豊国」 「肥国」 「熊曾国」 と。
 こちらは 「古事記のイントロ 国生み」 でご確認を。
 これらの国の境界を何処に設置していたかは不明ですが
 大凡、
 筑紫国は九州北部、豊国は九州東部、肥国は九州西部
 そして、熊曾国は九州南部エリアに該当します。
 従って、筑紫=竺紫を前提とすると
 日向の高千穗は豊国エリアに属し、
 神倭伊波礼彦命(神武帝)一行は
 豊国から筑紫国に向かった事に。
 只、古事記撰上(712年)時の九州地区行政区分は西海道として
 筑前・筑後 豊前・豊後 肥前・肥後 日向 大隅 薩摩の
 九国にエリア分けされていました。
 とすると、日向国 ⇒ 豊後国宇佐 ⇒ 筑前国岡田
 の経路を辿った事になります。
 只、海路か陸路かは不明。
 後に海路を伺わせる箇所が記載されていますので 「舟」 での移動
 とは思われますがもし東に進むのであれば、
 大分国後半島宇佐から瀬戸内に進路を取る方が効率的です。
 神武帝らはその進路を取らず、北九州岡田宮に立ち寄っています。
 この経路ですと関門海峡を選択した事が想像され、
 日向国から海岸線を北上する陸路であった可能性も残ります。
 更に遠征軍団の規模にも関わるのですが大部隊ですと
 大型輸送船が無い時代ですので 「小舟」 を数多用意しなくては
 移動不可能になる筈ですから陸路の可能性が高まる事に。
 何れにせよ遠征軍団の様子も不明ですので・・・・・。    続く。

|

« 神倭伊波礼毘古命軍団 日向発つ 377 | トップページ | 神武軍団九州を後にし山陽道に 379 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 神倭伊波礼毘古命軍団 日向発つ 377 | トップページ | 神武軍団九州を後にし山陽道に 379 »