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2011年8月21日 (日)

阿治志貴高日子根神の弔い模様 336

 夫、天若日子を亡くした下照姫の哭(泣)く声が風に響き渡り
 やがて、高天原に到った。
 これで高天原側は
 天若日子が命に背き死に至った事実を知る事に。
 天若日子の父、天津国玉神と彼の妻子もこの情報を聞き、
 豊葦原瑞穂国、出雲国へ馳せ参じ、嘆き悲しんだ。
 (天若日子はちゃっかり高天原でも妻を娶りお子さん迄も・・・。)
 下照姫と高天原の妻との諍いは無かったのか疑問ですが、
 展開的には、高天原風の弔いで執り行ったのか?
 天若日子が亡くなった処を喪屋にしてお葬式。その役割分担は

 河鴈 岐佐理持(きさりもち) 配膳係
 鷺 掃持 清掃係
 翠鳥 御食人 調理係
 雀 碓女 調達係
 雉 哭女 演奏係

 上の様に定め、お葬式を8日間昼夜を問わず挙行した。
 「遊也」 ですからめそめそ無くしの大宴会?
 その際、阿遅志貴高日子根神が喪に来られた。
 この神は阿遲(二字以音)△高日子根神。<△は金偏に且>
 彼は天若日子と容姿が非常によく似ていた為、
 天若日子の父を高天原の妻は哭(泣)きながら
 「わたくしの子は死なないでここにいた」
 「わたくしの夫は死なないでここに座っていらっしゃる」 と云い
 阿遅志貴高日子根神の手足に縋 (すが) りつき哭(泣)いた。
 しかしながら、阿遅志貴高日子根神は憤慨し
 「我は愛しい友ゆえ弔いにきたのだ。
 何で吾を亡くなった天若日子と比するのだ」 と云い
 腰に下がる十握(とつか)の剣(つるぎ)を抜き、
 喪屋を木っ端微塵に切り伏せ、足で蹴散らしてしまった。
 この喪屋は美濃国、藍見河の河上にある 「喪山」 となった。
 木っ端微塵に切り伏せた大刀の名を 「大量」 と謂(云)う。
 又の名を 「神度の剣」 と謂(云)う。
 阿治志貴高日子根神も怒り心頭でこの現場から飛び去ったらしく
 その際、妹の下照姫は兄の名前を世に知ら示す為に
 歌を一句詠まれた。

 阿米那流夜 天なるや
 淤登多那婆多能 おとたなばたの
 宇那賀世流 うながせる
 多麻能美須麻流 玉のみすまる
 美須麻流邇 みすまるに
 阿那陀麻波夜 あな玉はや
 美多邇 みたに
 布多和多良須 ふたわたらす
 阿治志貴 阿治志貴
 多迦比古泥能 高日子根の
 迦微曾也 神ぞや

 この歌は 「夷振」 である。 と古事記は結んでいます。
 阿遅志貴高日子根神 = 迦毛大御神賀茂(鴨)大御神
 をご覧下さいませ。
 又、夷振は古代歌謡曲名の一つ、宮廷お取り上げの大歌。 続く。

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