「霊魂の話」 折口信夫氏 304
折口信夫氏の 「霊魂の話」 は昭和4年(1929年) に
どちらかで講演された筆記録との事です。
以下、このお話しを整理してみます。
先ず彼は 「たま」 と 「たましい」 とは異なると規定。
「たま」 と云う概念が先にあり、
後に 「たましい」 の観念が生じたと推量。
「日本の 『神』」 はいにしえの言葉で
「たま」 と称えるべきものであったと。
「たま」 がやがて 「神」 と置き換えられた。
昔言葉 「たま」 と 今言葉 「神=たま」 との併用状況。
「たまは抽象的なもの」 で、時より 「姿を現すもの」 と。
その 「たま」 が 「神」 となり、
その下に 「もの」 と称えられるものが考えられる様にも。
ここで 「たまの概念分化」 の発生。 人から見て、
「たま」 の善部分・・・・・「神」
「たま」 の悪部分・・・・・「もの」
と範疇分けされる。 「たま」・「神」・「もの」 三者共存状態に。
この後、「たまの性質」・概念がイメージできるとして
古代日本人の 「ものの生まれ出る方法と順序」 の説明。
それを 「卵生」 をサンプルとして展開。
「穴のあいていない容れ物」(卵)
「の中に、入ってくるものがたま」 (この状態が 「なる」 の本義)
その 「たま」 が入った卵が 「ある期間を過ごすと」
その卵の殻を 「破って出現する。」
この状態を 「なり出(い)ず」 と。
ここより、「たまとたましひ(い)との区別」 の結論の間は
折に触れ再度触れることにします。
その 「たまとたましひ(い)との区別」 で
折口信夫氏は 「たましひ(い)」 とは
「知識でなく、力量・才能などの意味に使はれて居るので、
活用する力・生きる力の意を持つ」
「少くとも、働いてゐ(い)る力、といふ事にはなるのである。」
又、「目に見える光りをもつたもの、尾を曳いたものではない。」
とし、最終的には
「抽象的なもので、体に、這入つたり出たりするものがたま
だつたのであるが、
いつか其(それ)が、此(これ)を具体的に示した、
即(すなわち)、
たまのしんぼるだつたところの礦(鉱)石や動物の骨などだけが、
たまと呼ばれ、
抽象的なものゝ方は、たましひ(い)と言ふ言葉で、
現される様になつた。
大変な変化が起つた訣(訳)である。」
更に、これでは話し足りなかったのか?
「此(この)、たまとたましひとの区別に就いては、
いづれ機会を見て、もう一度話をして見たいと思ふ。」
と結んでおられます。
そして、「たま」 と 「たましい」 への漢字配当は 「魂」。
「霊」 の訓読みは 「たま」 のみ。 続く。
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