梅原猛さんの稻羽(因幡)之素菟読み 288
この古事記伝説を梅原猛さんは若干45歳で独自の論を
展開されました。
時は1970年、70年安保闘争の年。
この年、梅原猛さんは
「大学紛争」 に伴い教授の職を辞しています。
その年に出稿された 「蔭(かげ)の部分」 (すばる2号) の中で
この稻羽(因幡)之素菟を取り上げています。
但し、梅原猛さんはこれから紹介する説を
「神々の流竄 梅原猛著作集8 集英社」 1981年9/23発行の
自序で今はこの説に80% 「否定的な意見をもっている。」
と記されていますのでその旨お願い致します。
又、稻羽(因幡)之素菟を
イナバノシロウサギと記されています。
それでは、梅原猛さんイナバノシロウサギ読みへ。
素菟の素 = 「裸」。
淤岐嶋 = 「沖ノ島 (福岡県宗像市)」。
菟神 = 宗像三神 ⇒ 道主貴(ちぬしのむち) ⇒ 宗像族
海和迩 = 綿津見三神 ⇒ 志賀島 ⇒ 阿曇族
和迩(ワニ) ≒ 船かも
そして、ウサギの移動は
「宗像族は、
白村江の敗戦以来、沖ノ島を引き揚げる必要があった。
もう中継基地は必要ない。ウロウロしていると唐の水軍が攻めてく
るかもしれぬ。引き揚げるには、沢山の船が必要だ。阿曇に頼んで
船を準備する。
そして引き揚げに成功したが、おそらくその謝礼のこ
とで阿曇との間にトラブルがあったのだろう。」 (前出 p135)
次に禊ぎ (梅原さんはミソギと) について
綿津見三神 ⇒ 阿曇族 ⇒ 海水によるミソギ
海水によるミソギ ⇒ 浴海鹽 (塩)
宗像三神の内で大島(中津宮) ⇒ 宗像族 ⇒ 真水によるミソギ
真水によるミソギ ⇒ 水洗 (天之眞名井)
更に、大島(中津宮)は七夕伝説の発祥の地と。 (天安河)
そして、ミソギ(禊ぎ)の違い件は
(禊ぎは裸で水浴び。ウサギが治癒したのは真水を浴びたから。)
「阿曇的なミソギから、
宗像的なミソギへ。そのミソギの変化の背後
には、海洋国から農業国への日本国家の転身の歴史がある。
海の神から陸の神へと、
神自体が変わらねばならない歴史の必然がある。」 (前出 p136)
と展開されました。
梅原猛さんの基本的スタンスは
「出雲地方」 を旧体制の神々の追放先としています。
故に、稻羽之素菟 (兎) の稻羽を出雲の隣である因幡地方
と考えません。
従いまして、淤岐嶋 (おきのしま) を島根県の隠岐島とせず、
北九州と対馬の間にある、沖ノ島として論を進められました。
約10年後、彼はこの説を80%否定的にされましたが
なかなか、味わいのある論理展開と思われませんか?
素菟 (兎)さんを宗像族を考察。
その宗像三神を祀る 「宗像大社」。
その宗像大社で現在も行われている秋の 「みあれ祭」。
海上一面の舟・舟・舟。
この上を兎さんがぴょんぴょん跳ねて北九州に上陸したと
考える事はロマン溢れるのでは・・・・・。
(宗像大社H.P.のスライド6枚目と7枚目) 続く。
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