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2010年4月 4日 (日)

古事記での創世神話は 268

 再度、古事記序文から(この初出は神話、古事記を紐解くとで)

夫混元既凝
氣象未效
無名無爲
誰知其形
然乾坤初分
參神作造化之首
陰陽斯開
二靈爲群品之祖
所以出入幽顯

 上記を梅原猛さんは
 「混沌とした世界のはじめはすでに凝り固まりましたが、
 万物を形成する生命とその活動はまだ現れませんでした。
 その状態はちょうど老荘のいうように、無名無為の状態であり、
 誰もその形を知る事ができませんでした。
 しかしながら、やがて天と地とが分かれ、
 天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神が、
 最初の創造の神さまとして現れ、
 陰と陽、男と女の区別が生じて、
 伊邪那岐神と伊邪那美神が
 すべてのものの生みの親となられました。
 こうして、伊邪那岐神はこの世から黄泉の国に行かれ、
 また黄泉の国からこの世にお帰りになり、」
 (神々の流竄 p373 集英社)

 ここの、カオス(混沌)から奇跡的に天空・大地・生命が出現し、
 陰と陽、男と女 (姿形では女と男) の区別が生じて
 からは伊邪那美神と伊邪那岐神のお二人が
 「宇宙のすべてのものの」 創造主になっているのです。
 決して一人ではものを造れないのです。
 更に、「うむ」 の行為=実践は女性が神から委ねられたお役目。
 故に、
 原始より女性は太陽であり、原始は母系社会だったのです。
 生あるものは必ず次の命を宿し
 やがて天寿を全うし、
 次の生あるものにその次の命を託す
 果てしなく、限りない、終わりなき繰り返し。   
 この、「もののあわれ」 が日本文化の根源。         続く。

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