日本列島への3侵入ルート 221
日本列島に侵入・上陸する3つのルート
1 南ルート 南洋島々の方々が島伝いに北上するコース
2 北ルート 樺太経由、或いは、千島 (クリル) 列島南下コース
3 西ルート 朝鮮半島から対馬・壱岐経由コース
何れのルートも移動手段は専ら海原航海の 「舟」。
南ルートの玄関は薩摩・大隅・肥後で旅人の末裔は隼人・熊襲。
北ルートの玄関は蝦夷(エゾ) (今は北の大地、北海道)。
西ルートの玄関は筑前・肥前で渡来系コース。
隼人・熊襲・蝦夷は縄文人の末裔と云われています。
各々のルートは前回、グーグルアースの地球と日本
をご覧下されば一目瞭然のコンコンチキでとっても近い。
日本史の教科書には縄文人は狩猟採集を行い、
表面が無地の土器でなくサイドに縄模様がある土器(容器)で
煮炊きをしていたと説明されています。
(お肉・野菜・果物・木の実等々バランスの良い食事だったかも。)
東南アジア人の 「顔」 を研究されている馬場悠男さん
(国立科学博物館人類研究部長) に依りますと、
縄文人以前、今から約二万年前の人骨化石が
沖縄本島の港川採石場 (現在の島尻郡八重瀬町)で発見された
との事 (1970年) ですので、この港川人が何れかのルートを
通して上陸され日本列島を発見した事になります。
その時代 「NIPPON (日本)」 と云う固有名詞が
当然ない訳ですが、便宜上、ここではお許し下さい。
そして港川人の末裔が縄文人で
今から約一万五千年前から二千八百年前 (約B.C.800年) までの
何と12,200年に渡って
この日本列島で生活されていたそうです。
馬場さんは約10万人程いらしたのではないかと推測しています。
港川人⇒縄文人の顔は彫りが深く目鼻立ちが整っていて
グローバルスタンダードの 「ソース顔」 。
そしてこの約B.C.800年頃 (二千八百年前) に
のっぺり・さっぱり醤油顔の 「北方アジア人」 が
西ルート=朝鮮半島経由で日本列島に侵入 (進入?)。
水田稲作農耕技術と金属器製造技術を持ち合わせた彼女・彼らが
渡来系弥生人と云われています。
北方アジア人はおよそ三万年前にシベリアまで進出した時点では
世界標準のソース顔だったのですが、
極寒のツンドラシベリア故に体を保護する為か
ずんぐりむっくりで胴長短足フラットな扁平顔に変身する羽目に?
彼らはマンモス、トナカイ達を捕らえ食す狩猟遊牧民でした。
その彼らが今から約六千年前に地球寒冷化の為なのか?
突如南下し始めたとの事。
その時点での中国は
既に北方では麦粟等の穀物生産を修得 (仰韶文化)、
南方では稲作技術を獲得して (青蓮崗文化)
農耕民化していた感じです。
腕力に勝る狩猟遊牧民は穏和な農耕民を蹂躙し?仲良しさん化?
胴長・短足・扁平顔の北方アジア人が東南アジアを征したのです。
やがて殷・周王朝時代を経て、
B.C.770年春秋戦国時代(東周)へ。
慮るに、その際の軋轢で
黄海・東シナ海に面する燕・斉・泗上諸侯・呉・越の国々の
為政者に叛旗を翻した方々が生まれ育った土地に別れを告げ、
舟で日本列島に脱出したのではないかと考えますが?
やがて、early NIPPON人である縄文人と渡来系弥生人の
愛の営みにより、現在の日本人のルーツが形成された事に。
話が違いますが、
現在、話題のメキシコ発、新型 (豚) インフルエンザ、その、
空の玄関は成田・名古屋・関西・福岡の4ルートで
海の玄関は横浜・神戸・函館の3ルート。
このヴィールスには何としても侵入して欲しくなかったですが
如何せん現在の地球はとっても狭くお邪魔されました。 続く。
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