中宮寺 母なる弥勒菩薩像 185
中宮寺H.P.の中宮寺沿革に依りますと、
「国宝弥勒菩薩半跏像」 は寺伝では 「如意輪観音」 と。
(東京国立博物館 中宮寺 国宝 菩薩半跏像 一番下に像説明有り。)
又、この寺は聖徳太子 (574~622) の母、
穴穂部間人皇后 (あなほべのはしひとおおきさき) (?~621)
発願により造られたと記載されています。
何かの事情があるとは思われますが、世の中では、
聖徳太子が母のお住まいを寺に改装したと伝えられています。
穴穂部間人皇女自身が勒菩薩半跏像を誰かに依頼して
制作させたとはとても考えにくいです。
わたくし共 ZIPANGU は、
聖徳太子が母の亡き後、
母を偲んで、
(奈良) 斑鳩尼寺にしたのではないかと考えています。
そして、母をモデルにして弥勒菩薩半跏像 (如意輪観音像) を
彫り師に依頼したのではないかと。
フォルムは聖徳太子が秦河勝にプレゼントしたと云われる、
弥勒菩薩半跏思惟像 (京都太秦 広隆寺) がサンプル。
フォルムサンプルが存在すれば作製に時間はかかりません。
カジュアルアパレルメーカーさん達が
ミラノ・パリコレクションをリメイクする手法です。
只、この彫り師さんが拘ったのが、顔のデザインです。
同じものを造ったら 「只の物真似」。
十中八九、この時代、美しい大人の日本人女性と考えられていた
顔のデザインに変容 (独メタモルフォーゼ) したのではないかと。
王冠感じの被り物を取り払い、自身の黒髪でお団子を二つ結い、
しなやかなロングヘアーを両肩から腕にそこはかとなく流すライン。
決して前屈みでなく、
背筋を伸ばした優雅な大らかさ、
適度なバストの膨らみ、
嫌らしさを全く感じさせないトップベアーの艶っぽさ。
繊細な手指を細面の頬に触れさせ笑みを浮かべる事により
理知的で色っぽく慈しみ溢れる微笑み表情を醸し出す表現。
これが世に云う 「才色兼備な女性」 表象では。
因みに、 「広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像」 とお比べ下さい。
歴然と違いがお分かりになると思います。
母を慕い想う聖徳太子が
どれだけ彫り師に弥勒菩薩半跏像 (如意輪観音像) を
素敵に造る様に依頼したかが伺われません?
この弥勒菩薩半跏像と今まで紹介した如来・観音様像との
大きな違いは顔。
如来・観音様像たちは衣食が当然足りていて
超ふくよかなボリューム感溢れるお顔。(太め)
それに引き替え、
弥勒菩薩半跏像 (如意輪観音像) の何とバランスが取れたお顔。
食優先時代にも関わらず、敢えて細面(ほそおもて)にする大胆さ。
これを制作された彫り師さんの思い入れには感心します。
そして、中宮寺沿革による寺伝ではあくまでも
弥勒菩薩半跏像ではなく、如意輪観音像としています。
如意輪観音像の如意輪とは、
今すぐ願いを叶えてくれるとっても素敵な物ってな感じなもの。
故に如意輪観音像さんは願い事を大至急お聞き届け下さる感じ。
それに比して、
弥勒菩薩半跏像は聞く所に依りますと、
56億7千万年後にしか、わたくし達をお救い下さらないとの事。
藤原道長さんが亡くなり、息子の頼通 (992~1074) 摂関政治に
陰りが見え始めた (私達の後講釈) 1052年、
当に、京都宇治平等院、阿弥陀堂造営を着手した年。
この時代に流行した、「末法思想」 によると
この1052年はお釈迦様の教えが効かなくなる初年度。
この年以後、
この世は 「永遠の暗闇世界」 に突入すると云う考え方。
故に、この時代の大資産家、藤原頼通は平等院を造営する事に。
弥勒菩薩半跏像はお釈迦様入滅後の500年+1000年=1500年
を56億7千万年から引いた年にこの世にお出まし。
しかし、しかし、よーく数字をご覧下さい。
5・6・7ですよ。
1・2・3 2・3・4 3・4・5 4・5・6 6・7・8 7・8・9
各々のグループの和は 「3」 で割り切れる数字。
更に2・3・4と5・6・7のみ 「3」×「3」 = 「9」が除数。
2・3・4の計は 「9」 「3」×「3」 = 「9」
5・6・7の計は 「18」 「9」×「9」 = 「18」
苦 (9) が一つだと寂しいので苦々 (9・9) 二つで
「く (9) く (9) っと笑って乗り切ろう。」 ってな語呂合わせ?
と云う事はないとしても、
大凡、漢語で三がつく場合は 「多い」 と云う意味合い。
あの大酒飲みの李白 (701~762) は 「白髪三千丈」 ですから。
それにしても人生80歳時代では間に合いそうもありません。
わたくし共 ZIPANGU も才色兼備な女性である
弥勒菩薩半跏像 (如意輪観音像) 様にお会いしたいから
斑鳩尼寺=中宮寺 の寺伝を採用したいと考えます。 続く。
追 「隠された十字架 法隆寺論」 梅原猛 新潮文庫 で
梅原猛さんは次の様に語っています。(p402)
「広隆寺や、中宮尼寺、それに当麻寺、元興寺など、有名な
弥勒像のある寺は、聖徳太子や蘇我氏と関係がある寺である。
思い切っていおう。弥勒像は、聖徳太子生前の姿ではなく、一度
死に、おそらくは浄土で再生しているにちがいない太子の姿では
ないか。その再生の姿として、深い思索の姿、いかにも聖徳太子
らしい弥勒思惟像をつくる。
すると、われわれ日本人があんなに感嘆の言葉投げた二つの
弥勒像も、少し意味がちがってくるのである。広隆寺の弥勒像の
あの深い思索の像、そして中宮寺弥勒像のあの甘美なな瞑想の
像も、実は、生前の聖徳太子より死後の太子、再生した太子を
表したものではないか。一見明るい、思索にふけっていられる
太子のお姿の中には、深い悲劇が隠されているのではないか。」
現在、一般的に弥勒像は聖徳太子とされています。
すると、弥勒菩薩像が男性になってしまいます。
わたくし共、ZIPANGU はこの論理には承伏しかねます。
恋あざみ
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