百済留学 女性(善信尼)達 171
日本史では男性の小野妹子が607年に留学した事について
なかんずく脚光を浴びていますけれども、
どっこいそれ以前に、なな何と、三人の女性達が
お隣の百済 (356?~660) に留学をしている事柄が
「日本書紀」 に記されています。
リーダーは前回紹介しました鞍作司馬達等のお嬢さん。
彼女は驚く事に11歳で仏門に入られたとの事。
と云うよりも彼女の意志ではなく、
鞍作司馬達等の意志と思われますが・・・。
女性の身で仏門ですから 「尼 (あま)」 になります。
彼女の母が日本人であったなら
日本人最初の 「僧」 (善信尼) に。(書物記載ベースで。)
それも妙齢な 「女性」。15歳で仏教学びの留学ですもの。
とっても偉い。(588年)
残る二人は、
漢人夜菩之女豊女 (禅蔵尼) と錦織壼之女石女 (恵善尼)。
漢人 (あやひと) ですのでご先祖は中国から渡来された方。
渡来漢人は基本的には手に職を持つ技術者と云われています。
錦綾織り職人さん、軍事部門の武具職人さん、皮工芸職員さん
等の専門技術を身につけていた方々です。
乱世では、「手に職」 がないと・・・・・。
現在の、わたくしどものアパレル業界でも
不況期では、頭に職が有るデザイナーさんよりも
手に職がある、
お針子さん(縫製)、パタンナー(製図)さん達が重宝がられます。
平穏な世でない限り、頭脳職は役に立たないのかも・・・・・。
錦織壼さんも名の通り、テキスタイルメーカーさんであったと
十分考えられます。
この二人のお嬢さん達は日本書紀で
善信尼のお弟子さんと記されていますので、
少なくても、588年現在、15歳以下であったのでしょう。
純真でうら若き乙女達は 「仏教思想」 を吸収する能力に
十二分に長けていたとも考えられます。
(但し、意思疎通言語が何語であったのかは不明。)
彼女らは翌々年 (590年) に百済より帰国していますので、
渡航期間を考慮すると 「丸一年」 程しかお勉強をしていない事に。
でもピュアー (pure) な彼女らにとっては十分な年月だったかも。
キャリアアップした彼女らは新進ファッション思想を百済より
持ち帰り、時めく女性に???。
587年に守旧派
軍事部門担当、物部守屋 (?~587)
思想部門担当、中臣勝海 (?~587)
らが権力闘争に敗れ、
革新派 (仏教思想信奉者) の
蘇我馬子 (?~626)、推古帝 (554~628) (在位592~628)
聖徳太子 (574~622) らの皆さんが権力獲得側ですので、
時めく、三人の彼女らにとり、お仕事機会は事欠きません。
彼女らのメインのお仕事場は
蘇我馬子の提供した、「豊浦寺」。(現在は有りません。)
このお寺が日本最古の 「尼寺」 とされています。 続く。
尚、推古帝らの偉業は、
「高貴(あて)なる紫色」 をご覧下さい。
咲き誇る牡丹
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