« 大人の見識?論理の宿命 160 | トップページ | 蛮カラのキリスト教? 162 »

2008年3月16日 (日)

修道士、佐久間甚九郎正勝 161

 儒者・林羅山と
 キリスト教徒・ファビアン佐久間甚九郎正勝の論理戦(問答)が
 1606年に展開されました。
 佐久間甚九郎正勝は佐久間信栄 (のぶひで)。(1556~1631)
 彼の父は織田信長の家臣、佐久間信盛。(1528~1582)  
 織田信長により、信盛は織田家重臣から後に高野山に追放される
 当に 「戦国の世」 を生きた方。
 佐久間父子は 「茶」 を好んだ文化人でも。
 息子の信栄は 「本能寺の変」 以後、
 信長の次男、信雄 (1582~1630) に仕え、信雄没落後、
 豊臣秀吉に文化担当、「茶人」 として迎えられます。
 佐久間信栄は父と共に、
 1576年以降、畿内の文化発信都市 (京・大坂・堺) で
 お仕事をしていましたので 「新情報」 ゲットはお手の物。
 侘び寂びの 「茶」 は勿論の事、
 世界制覇を目論むローマカトリック教軍団の先兵、
 イエズズ会戦士の
 フランシスコ・ザビエル (1502~1552)母国 西班牙
 ガスパル・ビレラ (?~?)母国 葡萄牙
 グネッキ・ソルディ・オルガンティノ (1533~1609)母国 伊
 ルイス・フロイス (1532~1597)母国 葡萄牙
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (1539~1606)母国 伊 
 らの来日により、ファッション新宗教の影響を受けます。
 わび茶は 「禅」 のこころ。
 キリスト教は新進ファッション。
 「新しいもの」を
 ついつい、つまみ食いで取り入れてしまうのは世の常。
 ちょいと話が逸れますが、
 日本史では1549年キリスト教伝来となっています。
 しかしながら、どっこい、これはローマカトリック教伝来です。
 「キリスト教」 は既に 「景教」 として伝来済み感じ。
 梅原猛著作集 「塔」 (集英社) に依りますと
 お隣、中国、唐の時代、
 「唐の太宗皇帝の貞観九年 (635年) に、阿羅本というペルシャ人
  が長安に来て、景教を伝えた。ついでその三年後、貞観十二年
  に、詔勅があり、景教は国家の保護を受け、
  長安の都の義寧坊に大秦寺なる寺がつくられ、
  僧二十一人を度し、その壁に帝の肖像画
  をかかしめたという。 次の高宗は、父の志をつぎ、
  諸国に景教の寺院をつくり、
  阿羅本をして鎮国大法主にしたという。」
 と云う内容が 「大秦景教流行中国碑」 に記されているとの事。
 梅原猛の 「塔」 の説明で、「景教」 とは、
 「四百三十一年に行われた第三回宗教会議において、当時、
  コンスタンチノーブルの教父として名声高きネストリウスが、
  異端として追放になったのである。 中略 そしてネストリウス
  はその弟子とともにシリヤに退いたが、ローマ皇帝の迫害は急で
  あり、彼は、ついにペルシャへ逃れて、ペルシャ皇帝の保護をえ
  た。」 
 キリスト教政治権力闘争に敗れて異端となった
 ネストリウス派閥のキリスト教。
 この景教が、その当時のエリート、遣隋使、640年帰郷の
 南淵請安・高向玄理らにより日本に情報伝達された模様との事。
 更に時代が下り、
 「聖武天皇の頃には、ペルシャ僧の来朝が伝えられるが、当時
  ペルシャは景教国であり、この僧も景教僧であったと思われる。
  正倉院御物にある多くのペルシャ的なもの、それとともに
  ペルシャ教すなわち景教の渡来が十分考えられるのである。」
 と語られています。
 梅原猛氏の日本古代史観を信じるも信じないもあなた次第・・・・・。
                                  続く。
 
 余計なお世話
 西班牙・・・・・スペイン
 葡萄牙・・・・・ポルトガル
 世界史、大航海時代の 「雄」 です。
 二国共に 「牙」 ですのでやっぱり怖い?
 国名漢字表記は、中国担当イエズズ会戦士、
 マテオ・リッチ (1552~1610)母国 伊 が作成???

 南淵請安(みなぶちのしょうあん)  (?~?)
 高向玄理(たかむこのくろまろ)    (?~654)

 大秦景教流行中国碑
 1625年宣教師アルバレー・スメドーに依り発見される。

弥生三月
spacer
弥生三月

|

« 大人の見識?論理の宿命 160 | トップページ | 蛮カラのキリスト教? 162 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 大人の見識?論理の宿命 160 | トップページ | 蛮カラのキリスト教? 162 »