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2008年3月 2日 (日)

徳川幕府を支えた朱子学  159

 江戸・徳川・儒教 (朱子学) ブランド3世代。

 林羅山 (らざん) (1583~1657)
  ⇒林鵞峰 (がほう) (1618~1680)
   ⇒林鳳岡 (ほうこう) (1644~1732)

 林羅山お爺ちゃんは目出度く孫の代まで続けました。
 これで林家ブランドは3世代続きましたので盤石。
 鎌倉時代以降、
 インテリゲンチャ ( 露 intelligentsiya) は
 1 京都朝廷公家軍団
 2 幕府保護禅宗僧軍団。
 しかしながら、足利幕府の政治基盤が揺らぎ、
 群雄割拠の100年程続いた戦国時代、
 インテリと称せられる人達もどのセクトに与するか
 思案のしどころ。
 落ちぶれた (経済的基盤の希薄さ) とは云え、
 さすが公家軍団の中で、
 一際、記憶力と忍耐力を持ち合わせ勉学に励んだお方の存在。
 藤原道長 ⇒ 藤原長家・・・・・藤原俊成 ⇒ 藤原定家・・・・・
 の流れを汲む、
 藤原惺窩 (せいか) (1561~1619)。
 彼は長男坊でなかった為に郷里を離れ京都、相国寺に入り、
 「禅僧」 として修行し、儒学の一セクト (sect) の 「朱子学」 を
 学びます。
 やがて、彼は学問を修め、お弟子さんを取る迄になります。
 そのお弟子さんの一人が林羅山。
 徳川家康は藤原惺窩にブレーン (brain)
 として仕える事を所望しますが、
 彼は頑なに断り、弟子の林羅山を推薦します。(1605年)
 この時、林羅山は若干数えで23歳。
 今時ですと、東大・京大卒業時、
 新進気鋭な若手プロパー (proper) 官僚玉子。
 絡めて、ネクスト就職先問題等々頭を悩ます時節では有りません。
 林羅山は
 藤原惺窩と 「書物」 で学んだ、論理展開を
 当に実際の世の中でお試し実践可能な立場になれたのです。
 一方、徳川家康は日本国家統一をほぼ成し遂げた時期、
 やや危うい反乱分子は 「上杉景勝・直江兼続」 のみ。
 家康の懐が広い故の林羅山登用か
 はた又、穢れ無き純真さ故の採用かはイザ知らず、
 林羅山に取っては又と無いチャンス。
 彼は、家康の為、額に汗して励みます。
 儒学の仁・義・礼・智・信を貫く 「思想戦術」 で有る
 「五倫」、
 君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信。

 これらをベースとした徳川幕府の武士統治政策である
 「武家諸法度」(1615年)を起草したのは
 林羅山と云われています。                   続く。

弥生三月
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弥生三月

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