あやめの生きた元禄時代 139
今現在は、平成の坂東玉三郎さんがご活躍ですが、
たおやかな女心を芝居 (歌舞伎) で表現し続けた
芳澤あやめさん (1673~1729) に
「ものごころ」 が付き始め、果敢に生き抜いた時代は、
天和 (1681~1684) 徳川5代将軍、綱吉時代
貞享 (1684~1688) 綱吉時代
元禄 (1688~1704) 綱吉時代
宝永 (1704~1711) 綱吉・6代将軍、家宣 (いえのぶ) 時代
正徳 (1711~1716) 家宣・7代将軍、家継時代
享保 (1716~1745) 8代将軍、吉宗時代の約半分
辛酉 (しんゆう) ・甲子、革命 ・革令でコロコロ年号が変化、
年号と云えば、甲子の年 (1684) には、
天文方、渋川春海 (1639~1715) らによる
精度の高い画期的な太陰暦
「貞享 (じょうきょう) 歴」 の採用。
庶民を巻き込み、心を動かした上方文化の情報発信者、
井原西鶴 (1642~1693)
竹本義太夫 (1651~1714)
近松門左衛門 (1653~1724)
宮崎友禅斎 (1654?~1738?) 1685年に友禅染を考案
尚、女性心を捉えた友禅染は
「宮崎友禅斎の手描き友禅染」 をご覧下さい。
文学の世界では
「徒然草」 「枕草子」 等を読み込んだ
北村季吟 (1624~1705) 「徒然草文段抄」 「枕草子春曙抄」
そして、彼の門下生、松尾芭蕉 (1644~1694)
更に、「万葉集」 「古今集」 を読み直した
下川 「契沖」 (1640~1701) 1688年に 「万葉代匠記」
水戸の御老公 (徳川光圀) (1628~1700) のお願いとか。
美術分野では
尾形光琳 (1658~1716)
彼の事は、「尾形宗謙⇒尾形光琳・乾山」 で。
思想界では
伊藤仁斎 (1627~1705) 京都、堀川で儒学の教授
建設土木界では河村瑞賢 (1618~1699) が
淀川治水工事に着手 (1684年)。
経済界では1688年に大坂の堂島に 「穀物売買所」 ができ、
最近飛ぶ鳥を落とさない落ち目の
「ヘッジファンド」 のツール (tool) である
「先物取引」 が
既にこの時にはお米の価格安定取引の為導入されていました。
又、
住友財閥の基礎作りをした住友友芳 (1670~1720) が
江戸幕府より 「別子銅山」 の開発 ・採掘利権をゲット。(1691年)
別子は現在の愛媛県宇摩郡別子山村エリア (area)。
これら皆さん達はなぜか上方 (関西) の方々。
この現象は何にも不思議ではありません。
神代? ⇒ 飛鳥 ⇒ 奈良 ⇒ 平安京都 ⇒
京都・鎌倉二重構造 ⇒ 室町 ⇒ 戦国時代まで
続いた長きに渡る京阪を中心とした日本伝統文化のなせる業。
こんな感じの、
どの分野でも泰平の世?を甘受し、謳歌、発展させようと
していた方々の中にあって、
偉才、芳澤あやめさんは 「女形」 の分野 (道)
女心の機微を探求し続け極めようと努力をし、やがて極める事に。
片手落ちはいけませんので、
関東地区はどうだったかと云いますと
徳川綱吉の側用人、
牧野成貞 (1634~1712) 柳沢吉保 (1658~1714)
徳川家宣の側用人
間部詮房 (1667~1720)
江戸幕府の思想擁護者、
林鳳岡 (ほうこう) (1644~1732) 湯島聖堂の初代学長 (頭)
異彩はインフレ政策 (金銀貨幣の改鋳) を取った勘定吟味役
荻原重秀 (1639~1715) の奇策。 (1695年)
彼と尾形光琳との接点は
「尾形光琳と中村内蔵助の仲」 をご覧下さい。
等々、江戸幕府政治関連の方々がズラリ。
どうもこの時期、関東地区の方の文化貢献度が
上方 (関西) 地区の方々に比して低い感じ・・・・・?
と思いきや、さにあらず、
後の江戸日本文化を代表する 「浮世絵」 の創始者が
このお江戸に存在しました。(安房国(千葉県)出身で江戸在住)
そのお方は上方地区の方々を見返した
「見返り美人」 を世に残して下さった菱川師宣。
彼に関しては、 「刺繍職人(縫箔師)から 絵師 菱川師宣へ」 で。
続く。
菊薫る秋
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