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2007年7月31日 (火)

地方分権なら松平定信 103

 田沼意次を追い落としの大黒幕は松平定信の従兄弟、
 一橋家2代目当主、徳川治済と云われています。
 何せ、彼はご自分のご子息 (家斉) を
 江戸幕府11代将軍にしてしまう
 政治力を持ち合わせているくらいですもの。
 「有能な旗本官僚」 を罷免する事はちょちょいのちょいかも?
 
 それはさて置き、松平 (田安) 定信は
 一橋治済の暗躍と斡旋で17歳の時 (数え)
 徳川家康の母、於大の方 (15828~1602) の二番目の旦那の
 (久松俊勝) とのお子様達 (久松松平家) の末裔が藩主を
 していた陸奥白河藩へ養子に出され、後(1783年)に藩主の座に。
 中央、日本橋或いは霞ヶ関から地方、白河藩のリーダーに転進。
 
 彼が藩主になった時がちょうど 「天明の大飢饉」 の時代。
                    (1782年~1786年)
 天候異変による5年間の凶作時代。
 浅間山の吹き出す煙が長時間空を覆い、
 今の世と違い自然による自然破壊ですから未だ救われますが、
 美味しい農作物はできる訳がありません。
 陸奥 (東北地方) は当然として、関東甲信越の各藩も
 それなりに被害を被りました。
 そんな各藩の皆さんがお困りの際、松平定信は上方 (大阪) で
 米を買い占め (白河藩分のみ) この飢饉を凌ぎ乗り越えました。
 白河藩の領民に取りましては、素晴らしい藩主様。
 彼はご自分の藩だけは彼の度量で何とかしましたが、
 彼の器量はそこまで。
 中央レベルでの 「もののお考え」 を持ち合わせなかった様子。
  (考え方によっては儒教精神、長幼の序で
  年上の従兄弟の、一橋治済の領域を
  敢えて侵さなかったのかも知れません?)  続く。

盛夏の朝顔
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盛夏の朝顔

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