地方分権なら松平定信 103
田沼意次を追い落としの大黒幕は松平定信の従兄弟、
一橋家2代目当主、徳川治済と云われています。
何せ、彼はご自分のご子息 (家斉) を
江戸幕府11代将軍にしてしまう
政治力を持ち合わせているくらいですもの。
「有能な旗本官僚」 を罷免する事はちょちょいのちょいかも?
それはさて置き、松平 (田安) 定信は
一橋治済の暗躍と斡旋で17歳の時 (数え)
徳川家康の母、於大の方 (15828~1602) の二番目の旦那の
(久松俊勝) とのお子様達 (久松松平家) の末裔が藩主を
していた陸奥白河藩へ養子に出され、後(1783年)に藩主の座に。
中央、日本橋或いは霞ヶ関から地方、白河藩のリーダーに転進。
彼が藩主になった時がちょうど 「天明の大飢饉」 の時代。
(1782年~1786年)
天候異変による5年間の凶作時代。
浅間山の吹き出す煙が長時間空を覆い、
今の世と違い自然による自然破壊ですから未だ救われますが、
美味しい農作物はできる訳がありません。
陸奥 (東北地方) は当然として、関東甲信越の各藩も
それなりに被害を被りました。
そんな各藩の皆さんがお困りの際、松平定信は上方 (大阪) で
米を買い占め (白河藩分のみ) この飢饉を凌ぎ乗り越えました。
白河藩の領民に取りましては、素晴らしい藩主様。
彼はご自分の藩だけは彼の度量で何とかしましたが、
彼の器量はそこまで。
中央レベルでの 「もののお考え」 を持ち合わせなかった様子。
(考え方によっては儒教精神、長幼の序で
年上の従兄弟の、一橋治済の領域を
敢えて侵さなかったのかも知れません?) 続く。
盛夏の朝顔
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